第3陣 映画「家族」のように力強く生き抜いて欲しい
土田内科医院 土田 敏博
東日本大震災の医療支援のため、日本医師会災害医療チーム(JMAT)の富山県医師会第3陣に参加した。晴天の3月27日の午前10時に富山を出発したが、北陸道を北上していくと名立谷浜サービスエリア付近では、3月とは思えないくらいひどい雪であった。しかし雪に見舞われたのはその付近だけで、午後4時30分過ぎには「いわき市医師会館」に無事到着し、そこでの午後五時からのミーティングにチームのメンバー一同で参加した。
私たちの主な仕事は避難所で暮らす患者さんたちの巡回診療であったが、全国各地から支援者が集まっており、毎日、診療チームやメンバーが入れ替わった。ミーティングでは申し送りのような形で重症の患者さんや問題を抱えた患者さんの報告が行われ、最後に各チームに、翌日巡回する避難所が割り当てられた。
衛生面やプライバシーなど問題はつきない
震災から2週間が経過していたこともあり、避難所では比較的落ち着いた中で生活が送られていたと思う。医療ニーズの高い方は病院に入院され、震災後には診療できなかった地元の開業医の先生方も、少しずつではあるが診療を再開し始められていた。
避難所の生活では、上下水道や電気などのインフラストラクチャー、寒さ、トイレや手洗いなどの衛生面、プライバシーや避難者同士のちょっとしたトラブルなど問題は尽きないと思う。一方目には見えないものの、家族や友人や財産の喪失による精神的痛手、そしてこれからの生活への絶望感などが重くのしかかっているのだろう。
巡回の最終日は3月31日で新学期も近づき、避難所となっていた学校の校庭には、数人の子供たちが明るくはしゃぎまわっていた。4月1日に帰途についたが、この数日でいわき市内の店は次々と開店し、道を走る車の数もどんどん増えていった。
こんなのどかなところに放射能が降り注いでいるのか
すっかり春らしく感じられた太平洋側の明るい日差しを浴びて、ここに本当に放射能が降り注いでいるのかと思わせるほどのどかな中、いわき市を後にした。途中、磐梯山サービスエリアで休憩をとった。間近でみる磐梯山は、大きく僕らを包み込むようであった。ふと山田洋二監督の映画「家族」(1970年、松竹作品)のラストシーン(といってもはっきりとは覚えていないのですけど)を思い出した。
原子力発電所のある、また地震や津波の厳しい被害に遭われたこの福島県の人々(そして僕ら自身もまた)が、力強く生き抜いていかれることを願わずにはいられない。
(2011年4月15日 とやま保険医新聞)