2014.06.14  日本の進路を問う講演会 護憲派の憲法学者 青井 未帆氏

集団的自衛権と日本国憲法
~安倍政権の『憲法解釈の大転換』をどうみるか~

護憲派の憲法学者が大いに語る

 いま、日本の政治が国内・国際情勢と共鳴しながら、めまぐるしく変化しています。そのなかで、憲法改正問題についても、議論の流れが急になってきています。
 保険医協会では、改憲に賛成か反対かの立場を超えて、そもそも憲法とは何か、安倍政権の「解釈変更」は是か非か、について考えてみたいと思います。

青井さんから・青井未帆さん画像日時 6月14日(土) 16:00~18:00

場所 ボルファートとやま 4階琥珀

講師 学習院大学大学院法務研究科 教授 青井 未帆 氏

 

 協会は昨年6月、「日本の進路を問う講演会」と題して、集団的自衛権と日本国憲法について、立場や主張が異なる二人の憲法学者による講演会を開催しました。
 本号では護憲派として知られる学習院大学大学院法務研究科教授の青井未帆氏の講演内容をご紹介します。(文責・編集部)

安倍政権の『憲法解釈の大転換』をどうみるのか
学習院大学大学院法務研究科 教授   青井 未帆

 個人の自由が最大限保障されるために憲法が存在する

  青井・右向き憲法とは何なのか。
「自分の人生は自分で掴み取ることができる」、これをわが国で保障するのが日本国憲法です。
 中世の時代は、例えば職業選択の自由がなく、農民として生まれれば農民として死んでいく、そのような時代でした。しかし今は一度しかない自分の人生を、政府や他人に強制されることなく自分で決めていくことができるようになりました。その個人の自由が最大限保障されるために憲法が存在します。
 とは言っても、お金持ちの家で生まれた子供とそうでない子供では、スタートラインが違うのが現実ですね。しかし、だからといってその人の人生が決まっているわけではありません。変えていかなくてはいけない。その現実を変えていく武器こそが憲法です。

選挙で勝った権力者は何でもできるのか

 日本国憲法の三原則は、「基本的人権の尊重」「平和主義」「国民主権」です。私はそのうちの国民主権のもつ言葉の意味が小さくなってきていると思います。安倍首相が「私が最高責任者である」と言いましたが、それは国民によって選ばれた権力者という自負があるのでしょう。しかし、だからといって「あなた方が私を選んだのだから、何をされても仕方ないでしょう」というのはおかしなことです。
 私たちは民主主義・多数決のルールを採用していますが、多数決で決めるといっても、間違いは起きるので注意が必要です。

憲法は権力者を縛るもので、国民を縛るものではない

 日本、アメリカ、中国…どれも目に見えない概念です。国の判断というのはたいてい「日本は…」と言っている人たちが決めています。結局は国の判断といっても人間が行うことであり、問題なのは間違いを犯さない人間はいないということです。間違いを犯しがちな人間が政治をめちゃくちゃにしないように、条件と加減を決めて、政治はこの範囲でやりなさい、この範囲でやっていれば、ちょっとおっちょこちょいな人がいても私たちの知恵が破壊されませんよ、というのが憲法です。

国民はふだん憲法を意識する必要がない

 憲法というものは権力のある人を縛っているので、私たち国民には直接関係がありません。逆に大いにあるのが法律です。車を運転する人は道路交通法を常に意識して運転していますし、商売をされている人は商法などを意識しています。法律は「…してはいけない」といった風に私たちの行動を律します。この法律に従っている限りは憲法を考えないで生活を送ることができます。しっかりとした憲法の仕組みの下で、かっちりと法律がつくられる。この循環がきちんとなっている限り、普段私たちは憲法を意識せずに関係した法律のみを考えて行動することができます。

政治の振れ幅が大きくても国のカタチは変えられない

 立憲民主主義を考えるときには、憲法と法律の二層構造にしてみると分かりやすいと思います。
 憲法は、中長期的に国の基本的な考え方、統治の基本構造、自由や平和という価値を定めてあります。これは憲法を制定したときに選び取った国のカタチです。その上で、日々の生活は法律によって定められているのです。中長期的に守られるべき国のカタチと、短期的に決めなくてはいけない事柄が日々の生活の中にはたくさんあります。この二つを合わせたものが、立憲民主主義という考え方です。
 なぜ二層構造で見なくてはいけないのか。日々の政治の中で決める事柄は、振れ幅が大きい。最近数年のことだと政権交代です。現実の政治においては、やりすぎてしまうことも大いにあります。このやりすぎてしまう幅を定めているのが中長期的な視点で定められた憲法です。政治は何をやってもいいわけではありません。権力者には従わなくてはいけない矩(のり)というものがあります。それは中長期的な価値としての憲法です。これを政治は超えてはいけません。この枠の中で、民主主義的方法で決めていこうというのが立憲民主主義の考え方になります。

パリ不戦条約で違法とされた戦争だが

青井会場・左から 国際法の観点から話をしたいと思います。昔は国を守るということは国家の義務であり、そこから戦争をする権利が生まれました。戦争をする権利が認められると、技術革新によって兵器が発達し、想像もしない大きな惨事をもたらします。世界初の総力戦といわれている第一次世界大戦では、一般人も含め多くの方が亡くなりました。
 これを反省する形で1928年にパリ不戦条約が結ばれ、戦前の日本も条約締約国の一つとなりました。この条約の画期的な点は、戦争を初めて違法としたことです。しかし、この不戦条約はその後の戦争の歯止めにはならず、第二次世界大戦が起きてしまいます。
 第二次世界大戦後にできた国際連合憲章の下、1945年に国際連合ができましたが、国連は「戦争」という言葉をあえて使っていません。戦争という言葉ではなく「武力行使」という言葉を用いて、武力行使は原則として無効である、といっています。なぜ「原則として」なのかというと、紛争が起こったときに、自衛のための武力行使は認められるという立場だからです。

全く異なる集団安全保障と集団的自衛権

 紛争が起きた時、それぞれの国が自分で判断して解決しようとすると、結局は「自衛のための武力行使」という理屈をつけ、戦争状態になってしまいます。そうならないために、国連の安全保障理事会が判断して、国連憲章に基づく行動として、国連加盟国が一致団結して悪いことをしたやつを懲らしめる。これが「集団安全保障」です。国連安保理が指揮をとる形で一元的に管理しようという理想として掲げられました。
 しかし、ヤルタ会談で国連安保理の決議方法として五つの安保理常任理事国の「拒否権」が認められてしまいました。これでは安保理は役に立たないと思った中南米諸国は、中小国の安全を守るためには中小国が一致団結して大国から防衛することが必要であると訴えました。その結果、その時点では中小国が自分たちを守るためという理屈で国連憲章の51条として「集団的自衛権」が入れられました。
 集団安全保障と集団的自衛権では内容が違うのですが、言葉が似ているのでわかりにくい。これをあえて政府は混同させようとしています。政府が集団的自衛権の行使を必要とする場合として示した「15事例」の中に「集団的自衛権」と「集団安全保障」の事例が意図的に混ざっています。

大国が小国に軍事介入する口実に使われてきた

 ではその後、中小国が一致団結して大国と戦うための方法として、集団的自衛権が使われたのかというと全く違います。集団的自衛権はこれまで、大国が中小国に介入する口実として使われてきています。ハンガリー動乱、ベトナム戦争、プラハの春、すべて中小国に対して大国が後ろから介入するための理屈として集団的自衛権が行使されているのです。
 国連憲章が本来掲げてきた理想通りに動いているとは思えませんが、やはり集団的自衛権は異物としての概念だったはずという視点は重要です。国連憲章が個別的自衛権も集団的自衛権も認めているから日本でも認められて当然である、行使できないでどうするのかという議論には簡単にはなりません。片方は昔から認められた概念、もう片方は若い概念でかつ乱用された歴史をもっているという代物で、両者を同列に考えるわけにはいきません。

戦争をするのは形のない国家、惨禍にあうのは生身の人間

 今、集団的自衛権を巡って何が起こっているのか。
 これまで約60年に渡って憲法を改正しないと作れないとしてきた法律を、憲法を改正しないで作ろうといっているわけです。今の安定的に動いている憲法秩序が根本から変わってしまう可能性があります。憲法と法律は違います。法律の親玉が憲法なのではなく、憲法は個々の法律が正当である根拠を提供しているものです。今、日本では憲法のもつ意味を国民一人ひとりが考えなくてはいけなくなってきました。
 自由というものは実態的な概念ですが、平和というものも非常に重要な価値です。憲法の前文の中に「日本国民は…」という主語で始まり、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないように…」という文章があります。「政府の行為によ」るというところに注目していただきたいのです。国家には形がありません。国家が戦争をしますが、空襲で家を焼かれ、亡くなったりけがをするのは私たち人間です。政府の行為による惨禍は、私たち生身の人間が経験します。これは人権侵害以外の何ものでもありません。日本国憲法では、政府の行為によって再び戦争の惨禍がないようにといっています。平和を実現するために、憲法では9条の第1項で戦争を放棄するといっています。また、第2項ではそのために戦力を保持しない。また、交戦権はこれを認めていません。

自衛隊は戦力ではない、軍隊ではない、というロジック

 憲法9条は、直接的に「我が国は平和主義」ということを謳っているわけではなく、軍隊に権限を配分しないということを規定しています。国家機関は権限がないと行動できませんし、権限の中でしか行動ができません。憲法9条は軍隊を持たないといっているので、軍隊に権限が配分されていません。権限配分しないという「無」の規定です。
 しかし、みなさんが知っているように自衛隊があります。自衛隊は「実力を行使する組織」であって、そういう観点からするとかなり大きな権限体系です。自衛隊が存在するためには余程の理屈が必要です。その理屈とは、自衛のための必要最小限度の実力である自衛隊は戦力ではない、軍隊ではない、だから持ち得ることができるという理屈です。戦争を放棄するというのは他の国にもありますが、戦力不保持というのはとても珍しい。このため日本国憲法は単に理想を謳っただけという解釈も不可能ではありません。しかし、9条は「単なる理想に過ぎない」ものではなく、政治を縛る「法」として理解されてきました。これは非常に重要なことです。国民の監視の下、政府だけではなく国民全体で納得のいくラインを定めてきました。その結果これまでは、あくまでも自衛のため…という理屈、解釈による自衛隊の行動範囲のコントロールでした。

解釈変更は国民が考え判断するプロセスを奪う常軌を逸脱した方法

 私が専門とする法律学は理屈の学問です。理屈が通っている間は説明が可能ですが、理屈がなくなったらどうなるのか…とても恐ろしい。私たち憲法学者などで設立した「国民安保法制懇」が危惧していることは、国家権力を縛ってきたものが有名無実化して、生のままの権力になったときにどうコントロールしていくのか、ということです。解釈の変更で九条は明文に残りますが、単なる飾りものになってしまいます。本来、憲法の条文を変更できるのは、96条に基づく憲法改正手続きが行われた場合だけです。一内閣による解釈変更はこれをショートカットするに等しいのです。
 96条が定める日本国憲法の改正の手続きルールは、衆参両議院それぞれ3分の2以上の賛成による国会の発議と国民投票での過半数という二段構えです。憲法の改正にはそれなりの手続きを踏む必要がありますが、解釈変更は国民が考えて判断するというプロセスが飛ばされてしまいます。これが解釈で変更するところのおかしな点です。

なぜ解釈変更の閣議決定を行うのか

 また、今回の解釈変更については、閣議決定が二段構えとなっています。まず解釈を変更しようということについての閣議決定、その後に具体的な法律案を閣議決定し、内閣提出法案を国会に提出する。
 そもそもなぜ閣議決定が2つ必要なのか。これまで、PKO法など解釈変更に等しいようなことが行われてきましたが、解釈変更の閣議決定はしていません。今までのように実質的に集団的自衛権の行使容認に踏み込んだような自衛隊法改正案などをそっと出すことが出来たかもしれません。なぜそれをしなかったのでしょうか。それは、政府自身に憲法九条の意味内容を変えるという意識があったからに他ならない。また、政府自身も安全保障政策の根本的な転換に等しいとみなしているからだと思います。
 こういう方法を一度してしまうと際限がなくなります。9条でさえ解釈変更できてしまうのだから他の条項に関しても可能だろうという風になってしまいます。憲法はそのまま見て意味の分かるものではありません。一旦解釈しなければいけません。政府は解釈して、憲法を法律に反映させていくわけですが、すべての解釈をその時々の政権が変えることができるのであれば公的の安定性に欠けます。本来あってはならない手法であり、特に政府が何十年間も憲法のこの条文の意味はこういうことであり、改正しなければ解釈変更は認められないとしてきた事柄を変えるというのはあまりにも常軌を逸脱した方法です。

集団的自衛権の行使は何を招くのか

 集団的自衛権は一言で言うならば、武力行使、戦争ができる国になり得るということを意味しています。これまで、他の国が攻めてきたときに防衛することはあっても、日本の意思で他の国に行くことはないとしてきました。集団的自衛権が行使されれば、日本の意思で武力行使をする国になり、当事国となります。例えば、アメリカと北朝鮮が戦争になった場合、アメリカを守るためといって日本が集団的自衛権を行使すると、北朝鮮はアメリカと戦争しているのに日本にも攻撃されたことになります。これにより北朝鮮は正当に日本に反撃することができます。反撃するとなると、日本にはたくさんの原発がありますから、反撃対象の一つになるのは間違いないでしょう。
 また、国が集団的自衛権を行使する結果として、自衛隊の方々の命が失われるかもしれません。戦後、日本国の名の下に国内では死刑はありましたが、海外では人を殺していません。しかし今後は、日本国の名の下に人を殺し、殺されることになります。日本の自衛隊員が棺に入って帰ってくることも覚悟しなくてはいけないのです。
 抽象度が高いほど語ることは容易です。国を守るため、抑止力を高めるため、安心・安全という言葉や形のない概念。国民は脅威が煽られれば煽られるほど不安になります。政府は過剰に抽象度が高い言葉は使ってはいけません。それなのに、使っています。「国を守る、安心・安全」ということは私たちは否定できません。なぜ国家は存在しなくてはいけないのか。私たちの生活を守るためです。当たり前のことです。

九条がなくなった日本を想像してみよう

 9条の効力がなくなった場合、日本は国際政治の中で安全保障問題に対する政治の力量がより一層問われることになります。もう一つ、文民統制、シビリアン・コントロールの問題があります。軍は決して意思を持たずに、政治が意思を持ってコントロールする。今以上に自衛隊の方々の命を左右することになり、政治にかかる責任の重さは生半可なものではありません。
 その覚悟が政治家にも問われているはずです。しかし、国会の外から見ていると、すべての国会議員が安全保障問題に関心をもっているとは思えません。防衛問題に無関心の議員も多く、安全保障の定義を知らない議員もいます。そういう状況の中で集団的自衛権が行使されたらどうなるでしょう。私たちは主権者です。デモクラシーという政治の決め方の中で、ちゃんと説明してほしい、責任を負ってほしい。きちんと説明ができる情報を開示してほしいと求めていくことは、私たちの責務です。(了)