「憲法から明日の日本を考える」 伊藤真氏

   憲法は国民を守り、権力者の暴走を制限するもの

 2012年5月2日、富山市サンフォルテにおいて日本国憲法施行65周年記念講演会が開催されました。主催は「日本国憲法を守る富山の会。講師は弁護士で法学館憲法研究所所長の伊藤真氏。今は一人ひとりが大切にされていない時代であるとし、特に大震災に関連して国家緊急権や国民の生存権について熱く語りました。

(いとう まこと)1958年生まれ。1981年司法試験合格。真の法律家の育成を目指し、伊藤塾(法律資格の受験指導校)を主宰。「憲法を知ってしまった者の責任」から、日本国憲法の理念を伝える伝道師として、講演・執筆活動を精力的に行う。

 今はどういう時代なのか

 今はどういう時代でしょうか。一人ひとりが大切にされていない社会と言えるのではないでしょうか。象徴的なことですが、子どもの貧困率が15.7%、7人に1人が小学校の給食費を払えていません。毎年70人から80人の人が餓死しています。90年代後半から新自由主義が広がり、非正規の就労者や生活保護を受けざるを得ない人が増えました。わが国はこのままでいいのか、もう一度考えなければいけない時だと思います。
 一方、私たちが時代を感じる印象はマスコミの影響を強く受けます。たとえば以前より凶悪犯罪が増えて不安を感じている人が多いのですが、実は犯罪による死者数は3.532人(1950年)、3.056人(1975年)、996人(2010年)と減少し、刑法犯も9年連続で減少しています。国民にとって客観的な「安全」は向上しているけれども、マスコミの報道が主観的で国民の「不安」を煽る役割を果たしていることが原因です。こういうことは、国家財政や社会保障、安全保障などにも言えることです。

大震災・国家緊急権について

  東日本大震災への対応では、憲法の考え方が必要です。政府やマスコミは大災害に乗じて、復興政策を日本経済の景気高揚につなげようという意図が強く、被災者の生存権、働く権利、教育を受ける権利など、憲法を活用できていないことが残念です。
 いま国家緊急権が必要だという政治家がいます。震災や原発事故が起きたとき、国は右往左往してしまった。それは、緊急権がなかったからであり、緊急事態に備えた憲法改正が必要だと言う。これは一見国民受けする話ですが、憲法を一時停止して国家緊急権を使うことは、権力の集中と人権の停止を意味するのです。権力分立と人権保障が憲法の二大本質ですから、歯止めの効かなくなった国家は大変恐ろしいことになります。

国家の緊急権は権力に乱用された歴史が

 政府が迅速な対応をとれなかったのは、法律を適切に運用できなかったからです。またリーダーの資質やそれまでの危機管理体制に問題がありました。けっして今の憲法のせいではありません。過去を振り返ると国家の緊急権は為政者たちの地位を挽回するために乱用された歴史ばかりです。ドイツのヒトラーが典型例です。日本は戦争に突き進んだ過去の歴史から、あえて国家緊急権をいれなかったのです。いざという時のために、定めておきましょうというのは耳障りがいいのですが、いったん作ってしまうと権力が乱用することは歴史が証明しています。

大震災・国民の生存権について

  憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」。これは1946年のマッカーサー草案にはありませんでした。まだ焼け野原だった日本が、日本人の意志として取り入れたもので、この時代にこの条文を入れたことは、とてもすばらしいことです。さらにこれは慈善や施し、相互扶助ではなく国民の権利であると謳っているのです。大震災で被災された人々が権利として主張していいことなのです。誰もが被災者になる可能性があるのですから、国民全体で遠慮なく権利を主張することができる雰囲気をつくることが大切です。
 さらに憲法前文2項で、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」があります。これは平和的生存権と言われています。この中で「全世界の国民が」というのが私の一番好きなフレーズです。自分の国だけでなく「全世界の国民」の平和を願い、貧困、飢餓のない社会が初めて平和といえるという、世界的にみても極めて重要な憲法だと思います。平和的生存権は人間の安全保障という考えの先取りです。安全保障といえば、国家の安全保障をイメージされるかもしれませんが、国民の一人ひとりの安全保障が必要であると、国連でも議論がすすんでいます。

平和的生存権に基づいて 脱原発を

 恐怖と欠乏から免れる対象として、放射能、原発も含まれるでしょう。したがって平和的生存権に基づいて、日本は脱原発をしていくべきだと私は考えています。野田総理は国連で「大震災を経験し、人間の安全保障を確保することの重要性を実感した」と発言しましたが、国内ではそれとは逆に国民の安全より経済を優先し原発の再稼働に固執しています。震災からの復興は経済成長のための手段ではありません。被災者が人間としての生活を取り戻せるための人間中心・地域中心に行われるべきです。

多数の意見が常に正しいというわけではない

  日本でも世界でも、多数意見が常に正しいのかどうかを考えなくてはならない事態が進行しています。ブッシュ米前大統領は9・11のあとイラクが大量破壊兵器を隠していると宣伝し、アメリカ国民は戦争することに賛成し、イラクのたくさんの人を殺してしまいました。ヒトラーはドイツ人失業者を守ることを公約し、米英からの圧力を過大に宣伝して、国民の圧倒的な支持のもとに侵略を開始しました。今ではファシズムの権化という評価が定着しているヒトラーも、当時はドイツ国民から拍手喝采を浴びていたのです。しかし、アウシュビッツでは、犠牲となった女の子たちはガス室におくられる前に髪の毛が切られ、その髪の毛で生地をつくってコートにしていました。このようなことが平気で行われたのです。これらは多数の民意を単純に反映することの、民主主義の危うさと言えるのではないでしょうか。
 つまり国民の多数意見が常に正しいというわけではありません。歯止めが必要です。一時的に多数の民意を反映している政府や首長でも、簡単に破ってはいけないもの(権力の分立)、奪ってはいけないもの(人権)がある。それが、憲法なのです。

私たち国民が声を出して 憲法を活用しよう

 憲法と法律は違うということを強調したいと思います。法律は国家が国民を制限するものですが、逆に権力者に制限をかけ、守らせるのが憲法です。国家の行き過ぎを制限するブレーキの役割は、司法(違憲立法審査)やマスメディア(政権批判)がしなくてはならないのですが、はっきりいって双方とも堕落していると思います。ですから、私たち国民が声を出していかなくてはいけない。少数派、弱者の味方である憲法は、時の権力者を制限して、国民の権利と自由を守る法ですから私たちはもっと憲法を活用していくべきかと思います。(了)