富山個別指導事件

富山個別指導事件…  記憶は風化させてはならない

         赤ひげの 先生にも似て 無医村の
                    医療に尽くす  若き医師死す

 1993年10月11日、県厚生部保険課(当時)の個別指導を受けた若い医師が自ら命を絶ったことは、県内の医師・歯科医師にとって、忘れることのできない痛ましい出来事でした。
 あれから19年。今なお指導・監査が医療費抑制の手段として位置づけられている中、当時の出来事を検証し今日的意味を問うことは、この事件に深く関わった保険医協会の責務です。
 事件を風化させないために、またこの事件を知らない方々に知ってもらうために、当時の『とやま保険医新聞』より抜粋してご紹介します。

事実関係を詳細に調査し、全国の保険医に訴える
 協会は、医師が受けた個別指導の事実関係を詳細に調査し、その原因が当日の高圧的な個別指導にあり、日常診療を否定され、理不尽な自主返還を迫られたことによるものだということを明らかにしました。県当局に事実確認を迫り、全国の保険医に訴え、県議会や国会で質問、日医との懇談などを通じて、個別指導の改善に取り組みました。

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個別指導で何が行われたのか
怒りの医師たち 保険医協会はどう受け止めたか
ハガキや手紙で寄せられた思い・意見
協会声明「保険医の死と保険医協会」
住衆議院議員が国会で追及
暴言かどうかは、言った技官が決めるものではない(立会人へインタビュー)
保団連とともに個別指導改善をめざして
住民が嘆願書寄せる
追悼集会に187人
・開業医はなぜ自殺したのか          

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 資料:指導・監査の歴史から学ぶもの

 こちらもご覧下さい → 年表『監査・指導をめぐる歴史的できごとと関連通知の変更

 富山個別指導事件から、今年の10月で19年。指導大綱と監査要綱が42年ぶりに改訂されてから16年となる。富山協会は、指導・監査の今後のあるべき方向を論議するための一助として、行政による監査が開始された昭和11年まで遡って関連資料を調べ、「年表・指導と監査をめぐる歴史的な出来事と関連通知」を作成した。この年表に沿って、指導と監査をめぐる変遷を概観し、歴史から学ぶものについて考えてみたい。

前史  

 診療報酬の支払い方式が団体請負方式だった昭和10年までは、日医・日歯が医療機関を直接指導していた。昭和11年にはじめて行政による監査が行なわれることとなったが法的根拠を持たなかった。17年の健保法改正により「保険医療機関の指定制」導入とあわせて「診療録の検査権」がはじめて法制化され、「監査」の根拠とされた。

監査による事件頻発

 昭和23年に支払基金が業務を開始したが、健保財政が史上初めて赤字を計上。昭和27年頃より健保赤字減らしを目的とした人権無視の監査乱発の嵐が全国に吹き荒れ、多数の指定取消処分者と少なくない監査後の自殺者を出した。そのことは、国会や新聞でも大きく取り上げられ、行政訴訟にもなった。すべてが監査として行なわれ、その実態は警察の取り調べさながらであった。この事態に、全国各地の開業医は黙っていなかった。北海道・長崎・広島・京都・大阪などで特に大きな運動として取組まれた。この運動が近畿地方での保険医協会結成の契機となったのである。
 厚生省は、昭和29年に一連の事件の反省から、これまでの監査一辺倒の方針を改め、指導の優先実施を定めた「厚生省、日医・日歯との申し合わせ」と、「懇切丁寧」という指導姿勢を盛り込んだ「指導大綱」を定めた。しかし、実際にはその後も専ら監査中心に実施されつづけた。指導に法律上の根拠が与えられたのは、昭和32年の健保法改正においてであった。現在行なわれている、指導と監査の法的位置づけはこの時に、確立されたものである。

指導優先に方針転換

 昭和33年には、現在使用されている診療報酬体系の原型が告示された。その翌年の昭和34年には再び、埼玉と宮城で監査後の自殺事件が発生した。国会でも取り上げられ大きな社会問題となった。
 厚生省は、2つの痛ましい事件の反省をふまえ、昭和35年に再び「厚生省・日医・日歯の申し合わせ」を交わした。その中で、即監査を行なうのではなく、まず個別指導を優先実施するという方針が再度確認されたのである。 
 その後の約17年間は、指導・監査問題を左右する主要な要素である健保財政の収支状況は、昭和36年の国民皆保険の実施、昭和48年の老人医療費無料化の実施などによる医療費総額の増加にも関わらず、経済成長とそれに伴う保険料収入の増加などにより、黒字基調が維持された。

医療費抑制の手段

 昭和52年頃から健保財政が悪化しはじめたことに伴い、「医療費の適正化のための指導・監査の強化」の方針が打ち出されることとなった。また、昭和56年の第2臨調答申を受け、指導・監査の実施体制の整備が昭和56年から63年にかけて矢継ぎ早に早に図られた時期でもあった。 富山個別指導事件は、このような動きの中で平成5 年10月に引き起こされたのである。この事件をめぐっての反省が、厚生省をして指導大綱と監査要綱の42年ぶりの大改訂を決意させたことは確かである。一 方、改訂直前の平成7年7月に起きた京都歯科技官贈収賄事件も、新指導大綱の基本骨格に大きな影響を及ぼした。また、平成6年10月に施行された行政手続法も影響を与えることとなった。

新指導大綱

 このような背景のもとに改訂された新指導大綱と新監査要綱は、個別指導の前段階として「集団的個別指導」の創設、医師会の関与を排除した「選定委員会」 の設置、選定基準と指導後 の措置基準の明文化などが 行なわれた。一方、自主返還や改善報告書提出など克服すべき課題も多く残した。 いずれにしても、保険医にとって永きに亘り「ブラックボックス」であった指導 ・監査問題は、情報公開法活用も含め、不十分ながらもその実態に少しずつ光をあてることが可能な時代となった。指導・監査問題の改善運動はまさにこれからが正念場といえる。

(2003年9月号より)