大震災を忘れない⑭

⑭南相馬へ来て1年

お世話になった富山県の先生方へのお礼に代えて

南相馬中央医院 院長
前済生会高岡病院 副院長
中林 智之

*この原稿は、3月4日に先生よりいただきました。

 中林医師早いもので、昨年3月30日に富山を出てからもうすぐ1年がたとうとしています。
 こちらに来るに当たり、35年間にわたり富山で医師として仕事をしてきた中で数多くの先生方にいろいろお世話になり、また、多大なご迷惑をおかけしてきたにもかかわらず、何のごあいさつ、お礼を言うこともなく富山を離れたことがずっと気にかかっていました。今回担当の方から原稿の依頼があり、この機会に、富山県の先生方へ私がこちらへ来た事情をお伝えし、これまでお世話になったお礼に代えたいと思いこれを書かさせていただいています。

最初の赴任地は城端厚生・上平診療所

 私は、昭和53年に大学を卒業しましたが、県立中央病院での初期研修が終了したあとの最初の赴任地が城端厚生病院(当時)でした。この病院は富山県の僻地中核病院第一号で、私は同僚とともに、上平診療所へ2泊3日で毎週診療に行っていました。この時、自分の臨床能力の貧弱さを痛感しました。何とかもっとましな医者になろうと努力はしたつもりですが、城端や上平の住民の皆さんにはご迷惑だったのではと思っています。その頃からもう少しちゃんとした医者になって、もう一度戻ってきたいと漠然と考えていました。しかし、循環器診療に興味があり、それなりに充実した時間が過ぎて、気が付けば済生会高岡病院で55歳をすぎていました。

医者としての最後は地域でという思いが強くなった

 そんな時にあの東日本大震災があり、日本中がそうだったように、私も茫然自失となりました。震災3週間後に医療支援で1週間岩手県釜石市の被災地に入る機会があり、いろいろ考えさせられました。今から思うと、そのころから、医者としての最後は地域に戻るという思いが強くなったように思います。だからと言ってそれなりの勉強をしたわけでもなく、また、済生会高岡病院の内科もご多分に漏れず医師不足で、自分が辞めることで、残る先生方の負担が増えることを考えると、なかなかふん切りがつきませんでした。ところが、2012年の夏ごろに、以前からお願いしていた、医師派遣の増員を富山大学第二内科(井上博教授には本当にお世話になりました)が認めてもらえそうとの話があり、そうなれば、内科の先生方にもそれほど迷惑をかけずに辞めることができるかなと考えました。翌年は自分が還暦を迎えるということで、あと何年医者をできるかとの思いもありラストチャンスかと思いました。

高橋先生に会いに南相馬へ

南相馬・高橋医師
 ただ実際には、具体的にどこへ行くかという考えは全くなく、寒いところは苦手なのでできれば南の島の海の見える診療所がいいかなどと夢みたいなことを考えていただけでした。そんな中、たまたま自宅でとっていた新聞に載った福島県南相馬市の高橋享平先生の記事(ご自身が末期癌で、診療所の後継者を探しているとのこと)が目に入ったのです。
 今から思うと、医師としての最後は地域でという漠然とした思い、来年は還暦となる現実、病院の内科の状況、震災後の日本の状況、南相馬の高橋先生の記事がちょうど自分の中でタイミングよくシンクロしたのだと思います。9月の初めに高橋先生に手紙を書き、10月に妻とともに南相馬に伺い高橋先生にお目にかかり、何が気に入っていただけたのかはわかりませんが、自分でよいと言っていただけました。

厳しい南相馬の医療状況

 さて、そのようにしてきた南相馬市ですが、医療の状況はなかなか厳しいものがあります。南相馬市は震災前は人口7万人強でしたが、現在住民登録6万4千人弱、実際に生活しているのは5万人弱となっています。病院は一般六病院(971床)が四病院(467床)に、精神科は2病院(358床)が一病院(120床)と減少しています(病院では特に看護師不足が深刻です)。診療所も震災前は40カ所でしたが、現在は26カ所となっておりそれぞれの診療所の負担が増しています(特に小児科の診療所が2カ所あったのが2カ所とも閉鎖されたままとなっています)。もともと医療状況が厳しかった地域が、震災後はさらに厳しさが増しているということです。

この場を借りて感謝

 避難指示区域の概念図ここへきてまだ1年弱で、残念ながら、患者さんが多くて困るという状況にはなっていませんが、来ていただいている患者さんにはできる限りの治療を行い、予防できることは積極的に実践していきたいと思っています(予防接種や禁煙外来にも取り組んでいます)。リスク管理をしっかり行い、少なくとも自分が診させてもらっている患者さんが救急車を呼ばなければいけないようなことだけはないようにしたいと考えながら診療しています。
 なかなかこちらに来られることはないと思いますが、仙台市や福島市も車で1時間半ぐらいのところですので、近くに来られることがあればぜひ声をかけていただければ幸いです。
 最後になりますが、これまで富山県の先生方には本当にお世話になりました。この場を借りて、深く感謝いたします。本当にありがとうございました。 

先生は最後まで原発事故にはふれなかった。しかし直線距離にして20キロ先は未だ事故収束の気配のないフクイチという現実がある。(編集部)

(2014年4月5日号 とやま保険医新聞)

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