故片山先生関連記事

故高野昇治先生へ 
  「多くを教えていただいた先生のご冥福を祈ります」            
                                                                                                               片山 喬

2006年8月25日号 富山医師・医学者の会 会報

 私が病気で入院中、高野先生がお亡くなりになったことを聞き大変びっくりしました。御葬儀にも出席出来なかったので、代わりに家の者に出てもらいました。
 先生は本当に素晴らしい方でした。保険医協会会長として多くの人をまとめ、多くの人に敬愛されました。又「核兵器廃絶をめざす富山医師・医学者の会」でもそのリーダーとして皆をまとめ、会のため努力されました。又、先生は大変勉強家で常に多くの本を読まれ、その知識を教えて頂いたことも多かったのです。
 先生には大変お世話になり、我々一同多くのことを教えて頂きました。御逝去は大変残念ですが、先生の核兵器根絶へのお心は皆よく承知しておりますので、今後先生のお志を受け継ぎ、核兵器廃絶を成し遂げる努力をしていくことをお誓い申し上げます。
 先生の御冥福を心から祈りますと共に、御遺族皆様の御繁栄を祈ります。

 

「アンゼラスの鐘」上映運動を進めながら
   「当時医者になっていたら、私も秋月医師のように…」    
                                                                                                  片山 喬

2005年8月31日号 富山医師・医学者の会 会報

アンゼラスの鐘ビラ007 アニメ映画「アンゼラスの鐘」は、原爆で破壊された長崎で、秋月という1人の医師が患者の救護に力をつくす有様を描いた作品です。私はこの作品の脚本を読ませて頂きましたが、終戦の年に米軍の焼夷弾で絨毯爆撃され焦土と化した横浜市に住んでいた時のことや父のことを思い出しました。
 それは終戦の年の5月29日のことです。私はまだ旧制中学の3年生、学徒動員で無線機工場に行かされていました。父は開業医で、空襲当日より警察署や小学校で救護にあたっていました。その日の夕方に、父のいた警察署に行ってみると、近所の顔見知りの人達が顔に大火傷をして診察に来ていました。放射能障害がなかったのは原爆をおとされた都市とは異なりますが、悲惨さはそれに劣りません。我が家の焼け跡へ行ってみると、せまい土地なのに焼夷弾が何本もころがっており、よく両親がこれにあたらなかったものだと感心したものでした。そうした中でまだ子供の私でしたが戦争はいやだと心から思いました。
 「アンゼラスの鐘」の秋月先生は病院そのものが被災した中でよくやったと思います。私自身もし当時子供でなく、すでに医者になっていたとすれば、先生と同じように活動したであろうと思います。

 

平和への思いを綴る 「横浜大空襲の思い出」                                          片山 喬

2003年8月31日号 富山医師・医学者の会 会報

 敗戦の年(昭和20年)の8月に富山市も米軍の空爆で焼失したとのことですが、私一家もその数ケ月前の同年5月29日に横浜市で空襲に遭遇したので、その思い出を綴ってみます。

 その年私は旧制中学(横浜一中、通称神中)の3年生でした。私が中学へ入学した年(昭和18年)には軍事色は強かったのですが、それでも一応授業は普通に行われていました。しかし「教錬・修練・修身」といった授業が多かったと記憶しています。2年生になると都市部での防火用水の壕掘りや農村への手伝いで麦刈りや稲刈り芋掘りなどをする事が多く、学校へ通う日時は少なくなり、3年生になると同級生全てが工場へ動員となりました。(上級生は全て動員を行っていました)私のクラスは他の2クラスと共に、その頃綱島にあった安立電気という工場へ動員となりました。ここは私鉄東横線(現東京急行)の綱島温泉駅からほど近いところです。私は東急線の高島町駅から綱島温泉駅まで電車で通っていました。毎朝の始業前には「学徒動員の歌」と「勝利の日まで」を歌い、無線機の組み立て作業をやっていました。

焼夷弾で爆撃を行なうB29
-ルメイ・最後の空襲(桂書房)-

 昭和20年の5月29日は晴れていました。朝から空襲警報で我々全学生は工場の裏山に掘られた防空壕に入りました。私はあまり中へは入らず入り口で空を見上げていると、B29がたくさん飛来し、焼夷弾が落ちてくるのがよく見えます。その後、横浜の町の方から黒い煙が上がっていました。昼頃になって空襲も一段落し、その後帰ることになりましたが、東急線は動いていないので友達らと徒歩で綱島から横浜に向けて歩き始めました。始めは結構話をしたりし乍ら、むしろ楽しいハイキングのような調子でしたが、横浜へ近づくにつれて言葉も少なくなりました。白楽、六角橋を過ぎると前方はもう焼け野原でした。熱い中を突っ切って歩きました。途中道端で亡くなっておられる方を何人も見ましたが、緊張のためでしょうか大きな動揺もなく走るように進みました。青木橋の所まで着くと焼失していない病院で運び出した医療器具を移動させたりしているのをぼんやり見ていると、友達の知り合いが来て私どもの家の方は全て焼失した事を知りました。覚悟はしていたものの愕然とし、ここで始めて両親の安否が心配になりました。自宅のあったところに辿り着くと、家屋は全て焼失し両親はいませんでしたが、近所の人に無事と教えてもらいました。
 父が開業医で医師会の関係で国防衛生隊という組織に加わっていたので、警察署で診察しているとのことで戸部警察署に行き父と会いました。父は丁度顔見知りの薬局の店主の治療(火傷のため)をしていましたが、本当にひどい火傷でショックを受けました。食事などはどうしたのか、全く覚えていませんが炊き出しもあったのでしょう。その夜はその警察署の柔道場の畳の上で寝ました。この後父は診療で動けないし、母を訪ねて再会しましたが、その後何とか知り合いの人の家を泊まり歩き8月15日の終戦の日を迎える事になるのですが、大変みじめな思いをしました。

 私はそれまで戦争をそんなに身近に感じていなかったのですが、この経験をして戦争を憎むようになりました。敗戦で燈火管制がくなりゲートルをまかずに外出出来るようになったことを喜びました。この戦争で亡くなられた方のご冥福を心から祈ります。
 現在もつづく核戦争の危機、核兵器を世界から失くすよう力を尽くしましょう。

 

核兵器廃絶をめざす富山医師医学者の会 
    第8回総会を開催 世話人代表に片山喬氏を再選

2003年8月31日号 富山医師・医学者の会 会報

片山喬世話人代表

 さる8月6日、核兵器廃絶をめざす富山医師医学者の会の第8回総会がフコクビルにおいて行われました。片山世話人代表が議長を務め、高野昇治副代表が活動報告・方針ならびに会計報告を、役員改選の提案を瀧邦彦世話人が行い、それぞれ承認されました。
 続いて行われた第24回世話人会では、世話人代表に片山喬氏、副代表に高野昇治氏、黒部信也氏が推薦され、再選されました。その後、弁護士の青島明生氏を迎えて「国民保護法」をテーマに話を聞き、意見交換を行いました。

 

ピースウォークin富山に参加

 2003年6月5日号 富山医師・医学者の会 会報

1列目左から太田真治世話人、矢野博明世話人、1人おいて小熊清史世話人、片山喬世話人代表

 3月30日(日)、個人やNPO(非営利組織)など幅広い市民が結集した「ピース・トーク&ウォークin富山」が開催され、当会からは片山世話人代表を先頭に、矢野・小熊・太田各世話人と事務局が参加しました。
 3月末、当会では、この戦争に反対する意思表示する方法として、診療室に掲示できるポスターを作成しました。そして保険医協会の協力で、より広範な医療人が参加できるよう県内の医師、歯科医師、医学者に送付しました。
 作成したポスターはフォトジャーナリストの森住卓氏の写真を使用し、湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾による放射線障害に苦しむ子どもたちが、切々と戦争の悲惨さを訴えてきます。
 医科開業医、歯科開業医、医薬大教授、公的病院の勤務医・医局宛に、1500枚以上送付しました。

平和のために何か行動したいが…との声も
 その際に同封したアンケート用紙では「ブッシュの個人的感情で世界を危険にさらされてはたまらない」「人を殺める事はいつ、いかなる時でも絶対悪です」「サダムは正しくないが、ブッシュの戦争も正しくない」などの声が寄せられています。また「平和のために何か行動したいが、診療が忙しくそうもいかない」とのジレンマも聞かれました。

 

イラク攻撃にNO! ~ 私の思い 「日本は米国の属国ではない」 
                                                                                    片山 喬

2003年3月15日号 富山医師・医学者の会 会報

 報道によると、日本政府は安保理の決議があろうがなかろうが、戦争をおこすという米国側のやり方を支持せざるを得ない。これは、日米同盟の関係からだという。
 しかし、同盟関係にあるからといって、日本は米国のやること全てに同調する必要はないはずだ。日本は特に戦争をしないことを国是としているのであるから、以前からはっきりと、米国を説得すべきであった。
 政府は北朝鮮の問題もあって今更日米関係を断ち切ることは出来ないというが、国際協調を第一と言うならば、米国のみに随従すべきではないと考える。世界の多くの国が米国を支持していないのだ。
 日本は米国の属国ではない。かつて日米安保条約締結反対に盛り上がった時代が想起され、あの軍事同盟によりわが国の進路を誤ったとの感を深くする。

 

 無差別テロと報復戦争- 私の思い…「テロと軍事報復」           
                                                                                                    片山 喬

 2001年11月6日号 富山医師・医学者の会 会報

 アフガニスタンでの戦闘はますますエスカレートし、米国自身も長期戦は避けられないとしている。このことで、アフガンの一般住民は直接的に身体的被害を受けるのみならず、間接的にも難民化などの多くの被害を受けていることは戦時中の空襲・戦災を経験したものには痛い程よく判り、同情を禁じ得ないところである。勿論、多くの人命を奪ったテロ行為はあってはならないことだが、テロにもそれを起こす理由がないわけではない。
 テロへの報復だといって、殺人行為がいつまでも許されてよいものだろうか。とくにどちらの側からにもせよ、核兵器など持ち出されれば、大変なことになる。米、英、露等の核保有大国の他にも、今回の事件と地理的にも近くかかわりの深いパキスタン、インドが核を保有し、核実験を行なった要注意国であることも気がかりである。
 広島・長崎の被爆を経験し、戦争はしないと宣言してきたわが日本は、核兵器を保有し、核実験を行なう国に対しては、安易に援助を行なうべきではなく、核戦争の危険だけは避けるべく努力すべきと考える。

 

非核三原則の法制化を!
   10/27 議会決議を求める運動がスタート

2001年11月6日号 富山医師・医学者の会 会報

 10月27日、富山市教育文化会館において、非核の政府を求める富山の会の主催で、前長崎総合大学教授の藤田俊彦氏を招き、「いま非核三原則法制化実現へ-スタート講演会」がひらかれました。

明らかになった核密約
 いわゆる非核三原則である「核を作らず、持たず、持ち込ませず」は、1967年に佐藤首相が、沖縄返還をめぐって国会で答弁し、その後国是として確認されているものです。
 その後「持ち込ませず」については、アメリカ政府が「核兵器の存在は肯定も否定もしない」という態度をとり続けているなか、米艦船の寄港や一時通過は該当しないという日米密約が明らかになっています。
 同時テロと米の報復戦争の泥沼状態が続くなか、核兵器使用の危険が今ほど迫っている時はありません。

核使用の危険に対する警鐘
 こうした情勢の下で、被爆国日本が「非核三原則」を法制化することは、憲法の平和原則を推進するとともに、世界人権宣言28条や大量破壊兵器を禁止する実定国際法、核兵器の先制使用を違法とする国連総会決議などにも合致します。また何よりも現在進行している、核の危険に対して有効な手だてになることは間違いありません

片山世話人代表、高野副代表も呼びかけ人に
 法制化自体は国会の専決事項です。したがって富山におけるこの運動は、富山県議会および市町村議会が、国会に対して法制化を求める決議を行なうよう県民世論を高めることが目的となります。
 この運動の呼びかけ人には、県内の著名な方々が名を連ねておられますが、当会の片山世話人代表と高野世話人副代表も個人として参加されています。
 当会としては、1月に予定している世話人会で、会としてこの活動にどう協力していくか協議することにしています。

 

片山喬氏が世話人代表に

2001年8月6日号 富山医師・医学者の会 会報

核医師総会

 核兵器廃絶をめざす富山医師・医学者の会の第7回総会を、市民講演会と同日の7月1日に開催しました。
 冒頭、常任世話人の片山喬先生は開会の挨拶で、「今日のような暑い日は、56年前の8月15日を思い起こす。」と、終戦の日に感じた平和への願いを述べました。
 当会は設立12年目を迎え、今回、組織の強化を図るため世話人改選を行ない、世話人代表に片山喬先生が、副代表には高野昇治先生と黒部信也先生が就任しました。
 また、はじめて二人の女性医師が世話人に加わり、「多くの人に平和を呼びかけていきたい。」と取り組みへの決意を述べました。
 今後の取り組みとして、市民公開講演会の引き続きの実施や、12月開催予定の「核兵器廃絶を求める医師医学者のつどい」全国会議への参加などが提起され、一層充実した取り組みを行なっていくことを出席した会員全員で確認しました。


◆ご挨拶   
                                世話人代表 片山 喬 

 この度世話人の皆様のご推薦により、これまでの佐々学先生の後任として世話人代表に就任しました。
 この会は設立以来核兵器の廃絶を願い、その目標達成のための運動を述べてきたわけですが、その活動は必ずしも十分とは言えませんでした。
 今回役員改選を機に若い世代の世話人のお力も得て、活力ある運動を展開して行けるよう努力してゆきたいと思います。そして、一刻も早く核兵器廃絶の日が来ることを念じたいと思います。ご協力よろしくお願い申し上げます。