故片山喬先生へ(追悼の言葉)

片山喬先生を悼む

世話人代表 金井 英子

 私は佐々学先生、そして片山喬先生の後を受け継いで世話人代表を引き受けました。歴代の世話人代表の先生方に比べて私はあまりにも貧弱な存在でした。それでもお引き受けできたのは、片山先生が相談役として燦然と存在していらっしゃるからでした。
 片山先生がお亡くなりになられ、戦争を体験された方をまた一人失ってしまいました。そして、心の後ろ盾を失った私は大海に放り出された小舟のようです。
 片山先生のお葬式で、私は初めて片山先生の富山医科薬科大学時代のお姿を知りました。学生さんたちからは父のように慕われ、卒業一期生の優秀な方々が沢山先生の医局に入られたと聞きました。また晩年は御病気に苦しんでいらっしゃったことも知りました。確かに、世話人会が終わって帰られる時の片山先生は、いつも少し背中を丸めて、そろりそろりと歩いて行かれました。そんな後姿が思い出されます。
 片山先生とのお別れは辛いですが、周りを見渡せば、世話人の先生方がいつも暖かく、そして毅然として存在していらっしゃいます。そのことが私を勇気付けてくれます。また、メーリングリストの存在は仲間との情報伝達のスピード、質、量を飛躍的に増大させ、活動がしやすくなりました。
 片山先生の反核と反戦への強い思いは私たちがしっかりと受け継いでいかねば、と今あらためて思います。どうか私たちをしっかりと見守って下さるようお願い致します。

 

片山先生の御遺志を胸に

世話人副代表 黒部 信也

 片山先生、先生は長い間何時も優しい心遣いで私にも接して下さって、本当に有難うございました。振り返ると、先生が千葉から新設の冨山医科・薬科大学の泌尿器科教室を立ち上げるため来富されたのが、昨日のことのように思われます。先生は地味な印象を与える方でしたが、新進気鋭の思いを秘めておられるのを感じさせられました。そしてお逢いした最初に、先生から私は名古屋の第八高等学校の一年後輩ですと自己紹介された時は、何と細かい気遣いをする方なのだろうかと思わされると共に、富山で一歩先に来た先輩としてどれだけ先生の御役に立つことが出来るのだろうかと自省させられました。
 先生のお仕事については、ほんの一端しか存じ上げないのですが、大学での研究、教育の他、「腎バンク」の整備の為に尽力なさいましたし、又関連病院での泌尿器科に対する配慮にも御苦労されました。そして富山協立病院の泌尿器科に対しては教室の一部分かのように思って親しく指導して下さいました。
 体具合がお悪くなってから時々お宅へもお邪魔させて頂きましたが、先生の書斎の本棚には落語の全集が並べてあって、先生の豊かな趣味を感じさせられました。また奥さんも本当に気さくな方で、洋画を嗜まれて冨岸運河沿いの工場や広島の原爆ドームを画いたものを見せて頂いたことがありました。
 そして何と言っても先生は民主主義と平和を愛し大事にする方だったということです。「富山の核戦争に反対する医師・医学者の会」の代表を引き受けて下さっただけでなく、色々な民主的な団体の主催者の一員として名前を出して協力して下さいました。
 従って今の自公政権が日本を再び戦争する国にしようとするのに強く反対されておられた先生の御遺志を胸にこれから生きて行きたいと思います。