西本さんは4歳8ヵ月で被爆。はっきりした記憶は強い閃光しかないといいます。幸い家族のほとんどが助かり、生々しい話を聞きながら育ちました。さらに何十年にわたって被爆者運動に関わる中で、被爆者の生の声や生活に触れてきました。なかでも悲惨な被爆証言を読み込むことは、とてもつらい作業だったといいます。
結婚で広島を離れ、他県で被爆者に対する無理解と差別に遭遇してからは、息を凝らして暮らしている仲間を励まし、被爆者医療指定医療機関の普及、原爆症認定手続きの援助などに奔走します。
現在、数少なくなった証言者の一人として世界各国を回り、日本政府の核兵器禁止条約の批准をめざして精力的に活動しています。
いくらB29が来ても爆弾を落とさない
これは広島の地図です。爆心地から東側に2.3キロメートルの、比治山の裏側に私の家がありました。私は1940年11月に生まれ、1歳の誕生日を過ぎてすぐに日本は真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入しました。食べるものも少なく着るものもないという中で私は育ちました。
1945年3月に東京大空襲を受け、一晩で10万人が殺されました。横浜、名古屋、大阪、神戸、大きな都市が次々と空襲にあい、ここ富山も8月1日の大空襲で街が焼かれました。広島にもB29が何度も来ました。夜に来ると親は子どもに防空頭巾を被せ、引きずってでも防空壕に入れようとします。灯火管制で少しでも灯りが漏れると町内の係の人からものすごく怒られました。
軍都だから狙われて当然なのに
ところがB29は何度やってきても、1つも爆弾を落とさないんです。ですから当時、広島は大丈夫だというある種の安心感があったようです。しかし広島には作戦本部があって全国から集められた兵隊さんが検査や検疫を受け、宇品港から大陸や東南アジアに出て行きました。軍都ですから狙われて当然なんです。後からわかったことですが、原子爆弾の投下地に決まってからは、それまでは一切無傷のままとしておくよう命令されていたというのです。原爆の破壊力を正確に調べるための実験台にされたということです。
多くの人が外に出ている時間を調査
ではなぜ何度も飛んできたのか。あの時代はパイロットの目視で狙いを付けて爆弾を投下していたので、目標地点を何度も確認したり、いつの時間なら広島市民がより多く家の外に出ているのかを上空から調査していたのだそうです。
当時空襲でいっぺんに焼かれないよう防火帯に指定された地域の家に取り壊し命令が出ました。その働き手はお母さん方や中学1年生たちです。朝、学校ごとに整列し作業に取り掛かかろうとしていました。兵隊さんたちも外で朝礼の訓示を受けている時間、仕事のある人は電車に乗ったりバスに乗ったり、およそ小さな子供とお年寄り以外はみんな外に出ている時間、それが8時15分だったのです。これも原爆の人間に対する殺傷力を調べる目的だったというのですから本当に怖ろしいことです。
覆いかぶさって守ってくれた母
真っ白な光、すぐに真っ暗に
その日は雲一つなく晴れわたって、とても暑い日でした。母親は朝から具合が悪くて動員を休んでいたので私はまとわりついていました。いきなり外で「B29だ!」という男の子の声が聞こえました。母親が窓から見上げると確かにB29が見えましたが空襲警報は聞こえません。嫌な感じがして窓から2、3歩下がった瞬間、ピカっと真っ白な光、それしか見えませんでした。私はあの光だけは忘れません。当時4歳の私はその光を夢なのかなと思った記憶があります。しかしそれはほんの一瞬で、すぐに真っ暗になりました。頭の上から物がどんどん落ちてきて痛いよ、痛いよと泣き叫びました。母は私を押し入れに引っ張り込んで、私に覆いかぶさって守ってくれました。
姉の首に刺さった木切れ
やっとのことで壊れた家の外に出ると周りの家もみんなぐちゃぐちゃでした。みんな何が起きたのかわからずウロウロするだけ。そこに小学3年生の姉が血だらけになって帰ってきました。姉は友達の家の前でピカっと光って家に飛び込んだところ木片が首に刺さったのです。母親はびっくりしてガレキの中に入り、救急袋を探し出しました。中には赤チンしかありません。刺さった木切れを抜いて赤チンを塗り、ちゃんと治療してもらおうと母が私をおんぶし姉を引き連れて通りに出たところ、すれ違った男の人から「そんなのは傷のうちに入らない、死にかけている人がたくさん待っている、行っても診てもらえないから帰んなさい」と言われ、わけも分からず引き返しました。
比治山が私たちを守ってくれた
私たちが助かったのは比治山のおかげだと思っています。原爆は上空580㍍で爆発、まず強い放射線が出てから熱線が3,000℃から4,000℃、爆風は秒速280㍍です。当時の広島は木造住宅ですからぺちゃんこになりました。強い台風でも60㍍ぐらいですから桁違いです。爆心地近くはまるで怪獣が来て踏みつぶされたみたいになりました。私の家は比治山の裏手にあったせいか、壊れましたが倒壊はしませんでした。原爆資料館で見て納得したのですが、市の中心部から見て比治山の表側はほとんど家が残っていないんです。裏側は壊れた家がぽつぽつと建っていました。この山の表と裏ではえらい違いでした。
熱線と爆風で街はすぐに火の海になって逃げるところがなく、火傷した人たちは川に飛び込みます。しかし負傷して泳げませんからみんな溺れ死んでいくのです。川は水面が見えないくらい死体で埋まり、水の色が赤かったそうです。
逃げたブドウ畑で
私たちは山の裏側から爆心地と反対の方向に逃げていくのですが、そちらにはブドウ畑がありました。当時、私の町内はここに逃げることになっていたそうです。母と姉の3人がたどり着いたあとから、家族も次々とやってきました。
軍需工場で働かされていた兄は何かの陰になって助かり、爆心地に近い電話局に行かされていた一番上の姉は、たまたま休みが当たっていて尾道の友人宅にいました。広島駅の2つ手前で降ろされ、線路伝いに歩いて来て、駅に着いた時は広島の街が無かった、というのです。山口県で仕事をしていた父親は広島が大変だと聞き急いで帰ってきて、やはり「広島の街がなくなってた」と言いました。こうして私たち家族は運よく誰も死んでいなかったのでした。
飢えを救ってくれた青いブドウ
ブドウ畑一面、逃げてきた人で溢れていました。食べるものは乾パンといって小麦粉を固めて焼いただけのものがわずかに配給されました。しかし量が少ない。一方で目の前にはまだ青いけどブドウがぶら下がっている。とにかく生きるために母親は見張りの目を盗んでブドウを採って私たちに食べさせてくれました。
三日三晩そこにいるうち私や姉が熱を出し、下痢や嘔吐を繰り返しました。母親は自分が採ったブドウを食べたので子供たちが赤痢になったと心配しました。しかし薬も何もないのに症状が収まっていくのです。あとでわかったことですが、それは放射線による急性症状でした。
大やけどの女学生
隣のむしろには女学生さんが横になっていました。その人は髪も全部焼かれ、やけどで顔がドッジボールみたいに腫れ上がっていました。唇や鼻があるけれども、人相なんて全然わかりません。戦時中は学生の誰もが胸に名札を付けていたので女学生さんだとわかりました。うめき声も出せないひどい状態で寝かされていましたが、翌朝には冷たくなっていました。
広島と長崎で21万人がその日のうちに亡くなりました。その後、助かったと思った人たちの中で熱が出て、下痢、嘔吐する。紫色の斑点、歯ぐきからの出血、髪の毛が抜ける。そこまでくるとあっという間に死んでしまったのです。放射線の急性症状でした。それらを見ていた人は、いずれ自分もそうなると恐怖の毎日だったのです。
それから5年、10年たって白血病が多く出た時期がありました。佐々木禎子さんという方が、2歳の時に1.7㎞で被爆したのですが、小学校のリレーの選手だったくらい元気でした。10歳で急性白血病になり入院し、折り鶴を千羽折ると病気が治ると信じて薬の包み紙も懸命に折っていました。亡くなった後、友人たちが禎子さんのことを何かで残そうと運動し、今は平和記念公園に原爆の子の像としてあります。私より2級下で面識はありませんでしたが、隣の学校だったので寄付の話が回っていたことを覚えています。
白血病に罹らなかった被爆者も年を重ねるにしたがって癌が多発しています。私たちは73年たった今も安心できません。ちょっと熱が出てもはっとして「いよいよ来たか」と思ってしまいます。
つらかった疎開生活
そこから私たちは汽車に乗って、父の出身地である島根県境の村に向かいました。実家のお兄さんは亡くなっていました。その後父親は仕事の関係で姉2人をつれて広島に戻りましたが、母親と下の3人の子は田舎に残り、そこで非常につらい思いをしました。時々、父親が給料を持って帰るのですが、そのたびに母親が「街に帰らしてくれー、帰らしてくれー」と泣いたのだそうです。
3年くらい経ったころ広島の焼け野原に建ったバラックの市営住宅に入れました。3畳間に思春期の姉2人、6畳に父母、兄、姉、私の5人ですので、寝返りもできない窮屈な思いをしました。私は高校生になるまでその長屋で暮らしました。
差別と闘い、命尽きるまで被爆者運動に
私は広島に27歳までいて、転勤族と結婚してまず札幌に行きました。広島にいた頃は家族や親せき、近所もみんな被爆者で、病院や学校でも何も珍しくはなく被爆者がいるのは当たり前のことでした。
被爆者医療が知られていない
札幌に行ってびっくりしたのは、私は被爆者です、と言うと「はあ、それは何ですか?」と不思議がられたことでした。病院の窓口で被爆者手帳を見せても、被爆者医療のことをまったく知らないのです。「この手帳を持っていると窓口で負担しなくていいんですよ」といくら説明しても「うちはこんなことできません」と断られました。役所を通じて指定病院になってくださいとお願いしても拒否されることもありました。
広島では当たり前だったことが、ここではそうではないとショックでしたね。指定病院を増やしたり、わざわざ領収証を役所に持っていく不便な思いを何とかしたいと被爆者運動を始めたのです。
差別を恐れ口をつぐむ
札幌から金沢に転勤になってそれはもう辛かったです。金沢というところは伝統があって保守的な土地です。被爆者の会の人数も少なく、ある会員さんは被爆者であることをひた隠しにしていて、「ここで被爆者とわかったら生きていけない」と言うのです。悲しいですね。また別の方は「あんたたちはいいね、手帳を持ってると医療費がタダになるなんて」と一番仲の良い友達に嫌味を言われ、それ以来病院に手帳を持って行くのをやめたそうです。私が「これはね、長年被爆者が訴えて運動して、ようやく勝ち取った権利なんだから」と言ってもかたくなでした。
当時の石川県は隠している人がほんとに多かったのです。人数が少ない分、余計に差別がひどいんですね。「あそこの娘と結婚させたら何の病気になるかわからん」などと告げてまわるそうです。そうするとやっとまとまりかけた縁談がだめになってしまうので、口にチャックしてしまうのです。
そうして年をとって癌などの病気が出てきた時不安になって私たちの会に相談に来ます。高齢になって記憶が薄れてきているので、厚労省に申請する原爆症認定の書類を作るのに四苦八苦します。
原爆症認定に今も大きな壁
今かかえているケースです。軍の命令で広島市内に救援に入った元兵隊さんが膀胱癌の手術をしました。この人は4㎞地点で被爆し、翌々日から2㎞以内で救援活動を終戦までさせられたのです。しかし厚労省は本人の原爆症認定の申し立てを信用せず「2㎞以内に入ったことを証明せよ」と不可能なことを言ってきました。86歳の方ですから一緒に救援活動をした人たちはもう亡くなっているのです。
長崎駅前でお母さんにおんぶされ、直接原爆に遭いやけどの跡も残っている方は、甲状腺の具合が悪くて申請しました。原爆症認定の範囲が広がって認められるはずなのに「甲状腺は影響ない」といって切られました。癌ならば認定されるのでしょうが、甲状腺機能低下症や心臓病などは、国は福島の原発事故につながるので認めようとしないのだと思います。
憲法9条は世界の宝 核兵器禁止条約を力に
私は被爆者としては元気なほうでしたので、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の代表の一員として10数カ国を訪問しました。
1999年、オランダ・ハーグの世界市民平和会議に出席しました。最終日のまとめで「公正な世界秩序のための基本10原則」が確認されることになりました。私は最初に核兵器廃絶が来ると思っていましたが違っていました。「各国議会は日本の憲法9条にならい、自国政府が戦争することを禁止する決議をすること」。本当にびっくりしました。それまで9条のことを水や空気のように当たり前と思っていたのですが、世界がお手本にしようとしているのですね。雷に打たれたような感動を覚えました。9条は世界の宝です。
コスタリカでは元大統領の自宅に招待されました。「うちの国は軍隊を持とうと言う人は1人もいないのです。貧乏だから教育費、医療費に使って精いっぱい。軍事費なんかに出せませんよ」
このように長く運動してきましたが、なかなか核兵器廃絶の方向に向かないなと思っていました。しかし昨年突然、核兵器禁止条約が国連で採択されました。これには本当にびっくり、歴史は動くんだなと思い、とても勇気づけられました。しかし採択されても50カ国以上の国で批准されなければなりません。今14カ国ですからあと36カ国です。一番残念なのは日本政府がこれにサインしないこと。交渉にさえ参加しません。政治的立場を超え、唯一の被爆国として日本政府が批准するようこれからも命ある限り頑張りたいと思います。