がれき撤去とヘドロ掘り出し

 今回の目的は、①被災した友人や後輩の自宅や診療室の片付けを手伝うこと、②現地をこの目で見てなるべく正確に状況を把握すること、③災害復興ボランティアに参加することです。

診療所の被害が少なくても生活のメドが立たない

自家用車で参加した兒玉理事

 2011年5月3日、いわき市に着いてまずは後輩の診療室と自宅の確認です。彼のクルマを追いながら海岸近くになると景色は一変。津波に破壊された街はまさに地獄でした。通りには人も車も殆ど無く、鼻を突く臭いが死を感じさせ、言いようのない不安がこみあげてきました。自宅は津波で1階が浸水し、建物自体少し傾いていました。同窓達と日が暮れるまで片づけを手伝い、ヘドロは土嚢袋で50袋を越えるほど掘り出しました。診療室の被害はほとんどありませんでしたが、停電と断水、機械・器具の破損、頻発する余震の中最近になってやっと診療を再開できたそうです。とはいえ患者は激減、将来の生活のメドは立てられそうにありません。

  その日はコインパーキングでシートを倒せるだけ倒して目を閉じるとそのまま寝てしまいました。翌朝作業服に着替え、マイスコップをかついで社会福祉センターへ。受付で名前や住所を記入。質問用紙に健康状態や協力できる日数、所有する資格・免許、希望する仕事、車で来ているか、今日の活動に使ってもよいかなど書いた後、注意事項の説明がありました。

受付をすませ待機(いわき市社会福祉センター)

  次に仕事の振り分けです。まず車を提供できる人が呼ばれ、『ボランティア活動中』と赤い文字で書かれたカードを渡され、カードを持った人が10人ほど横並びになると、その前に乗れるだけの人が振り分けられます。グループごとに場所・仕事内容などが説明されたら出発です。

  私が派遣されたのは津波の被害を受けた平豊間(たいらとよま)地区。我々の仕事は瓦礫と土砂・ヘドロで埋まった共同用水を復活させること。現場でボランティアを要請した方から説明を受け、この地区の中学生も加わり作業開始です。まずは瓦礫の撤去。大きなものは車や家の柱や冷蔵庫・洗濯機・家具類、危険なものはガラスの破片や釘。破傷風の話もあり、手袋を軍手から厚手のゴムに替えました。それにしても自ら希望して参加しただけあって皆黙々と働きます。あっという間に地面が顔をだしました。途中で歯科のカルテを見つけると、手伝っていた中学生の1人が「僕のばあちゃんのです。」彼の祖母がこの地区で開業していたらしいのですが、津波で診療室は全壊。命は助かったものの怪我で入院をしているとのことでした。瓦礫の次はヘドロの掘り出しです。水分を多く含んだヘドロはとても重く、土嚢袋いっぱいに詰め込むと持ち運べなくなってしまいます。持ってきた数百枚の土嚢袋がなくなってしまいました。

原発事故が福島県民の心に暗い陰を落としている

片付け作業の合間にひと休みするボランティア

 最後に、友人の家族がしてくれた話です。福島第一原発が爆発を起こした後、放射能の子供への影響が知れ渡ると、小さな子を持つ家が一斉に県外へ脱出。1ヶ月後に帰ってきたその人たちから聞こえてきたのは、避難先で受けた差別といじめだそうです。
 「他の県は復興に向けての舵取りが確実にすすんでいるのに、放射能を恐れて私たち福島だけが置いていかれている」という県民の意識が本当に強いと感じました。

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