30周年座談会 2

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1.準備会時代を経て設立総会へ (1977年~79年)

2.会員112人から600人に大きく飛躍(1980年~89年)

3.広い視野で活動の幅を広げて会員1000人に(1990年~99年)

4.小泉医療改革に抗して~会員1200人に(2000年~09年) 

 

2.会員112人から600人に大きく飛躍(1980年~89年)

左より赤江先生、田中先生、菅田先生、深山先生、鷲山先生、渋谷先生、稲原先生、黒部先生、岩倉先生、辻先生。

(井本)
 私は、今名前の出た洲崎先生に紹介されて1983年に入会しました。先生は保険医新聞のバイパス欄を始められたと聞いています。産婦人科医の大先輩で、とても気さくな方でした。
 ところで、組織は作るのも苦労ですが、何をやるにも財政の裏付けが必要です。その辺りはどうだったのでしょう。

 

富山医薬大痲酔科教室の協力を得て、富山・高岡・砺波・新川・射水の各地区で開催。

(平井) 
 優先課題は何をおいても会員と収入を増やすことでした。設立時100名余りだった会員数を3年間で400名まで増やした時期の話ですが、非会員の先生方を1年間で約500件訪問しました。3年間はそればかりしていました。先生方に協会に触れていただくように救急蘇生法などの企画を県内3、4カ所へ出向いて開催しました。
 また、共済制度のメリットということで、当時利率が9%台だった保険医年金や休業保障に加えて、富山銀行に掛け合って融資制度を発足させたり、グループ生命保険もスタートさせるということで、次々と新しい商品を追加しながら医療機関を回りました。

 名刺を破られた

(田中)
 平井事務局長は3年くらいは会員拡大で県内を奔走していたのですが、訪問先で目の前で名刺を破られて事務所に帰ってきたという「事件」が起きました。それを聞いた役員は悲憤の涙をこらえ「今に見ておれ、大きな組織にして見返してやるんだ」という気持ちをもって活動に取り組みました。

(矢野)
 私は協会ができた79年に富山に帰ってきました。当初は高志リハビリテーション病院の設立準備委員の一員として県庁の障害福祉課にいました。しばらくして地元の新湊市民病院(当時)に勤務するのですが、そこでの勤務医時代に平井事務局長の訪問を受け協会に入会しました。当時、医局では協会とはあまり関わるなと言われていたことを覚えています。86年に開業して協会理事となりましたが、医師会の先輩の先生方に協会の誤解や偏見を解いてもらうのには苦労しました。

(斉藤)
 設立から4、5年というのは土台作りとして大変な時代だったということがよくわかります。現在の多くの会員は協会の土台ができてからの入会のため、設立当時の協会への風当たりについては理解できないと思います。
 色眼鏡で見られていることに対して、そうではないんだと口を酸っぱくして説明してもなかなかわかってもらえない状況、様々な協会バッシングに対しては歯を食いしばって一つひとつ実績を積んで理解してもらう、医療人の復権を掲げて立ち上がった大変さというのがわかります。このような歴史を次の世代にどうきちんと引き継ぐかが課題だと思います。

協会らしい活動の広がり

(井本)
 今の話に関連して協会ならではの視点からの研究会企画などについてはいかがですか。

(田中)
 医師会と異なり、保険医協会は様々な医療保険制度の改善を求め、保険医の経営と権利を守るという視点でしたから取り組む内容や企画が違ってきて当然でした。研究会のテーマは実地の医療や経営に役立つもの、講演を聞くだけでなく遠慮なく質問や討論ができるスタイルを目指しました。

第1回協会レクリエーションは、「ジェットで行く東京ディズニーランド」だった。

(松村)
 私は3人目の事務局員として83年に入局しましたが、学術研究会を担当することになりました。協会の研究会は医師会や製薬メーカーがやるものと違って新しい視点が必要、日常的にすぐ役立つものでなければならない、大学の講師クラスの先生の話の方が役立つ、など協会らしい学術研究会としてのアイディアを出し合いました。
 また、84年には医療機関従業員の慰安旅行として最初の企画「ジェットで行くディズニー」を開催し、以降10年超に渡って毎年企画し会員のニーズが高いものでした。
 86年には「健康テレホンサービス」をスタートさせました。会員の先生方に原稿を書いていただき2008年までの22年間続きました。
 87年には『患者紹介ガイド』です。これは病診連携の研究会を契機に、冊子を作ろうということになって、現在まで毎年改訂し、協会内外で高い評価をいただいています。
 「保険医作品展」については、79年の協会設立総会の会場での展示が第1回目でした。しばらくは総会と同時開催でしたが、現在は単独企画として開催しています。「奥様サロン」「ふれあいサロン」「スキーツアー」などの企画もこの時期になります。
 このように80年代は協会活動の幅が飛躍的に広がった時期でもありました。

初めてのマイナス改定

(井本)
 ところで、80年代に入ってから「臨調行革」が言われ始め、医療費抑制の暗雲が立ちこめてきます。81年6月には初めて診療報酬のマイナス改定が行われるのですが、その頃の様子についていかがですか。

(斉藤)  
 この時のマイナス改定まではすべてプラス改定でした。私が大学を卒業したのは72年ですが、その翌年に老人医療の無料化が実現しました。それから10年は診療報酬がどんどん上がり、病院の規模も拡大し、様々な医療技術の革新が行われた時代でした。そういう中で、最終的には健保本人も老人も無料、そして家族も無料になる福祉社会を実現するんだと信じ切っていたのが70年代でした。
 そこに81年に臨調ができ、その中で言われたことは自立自助、民間活力、戦後政治の総決算ということですべてのことを見直そうという流れになった。無料から有料になるんだ、ここを突破されたら後はなし崩し的に大変なことになる、と先見の明をもって訴える方もいたのですが。老人有料化といっても定額制だろう、四百円だろうという認識のまま突破されていきました。

医療費亡国論、セスナ機、西武前で宣伝活動

84年、健保法改正(一割負担化)に反対し、白衣の街頭宣伝。高野、摂津、金森、小川、菅田先生などの顔が。

(小熊)
 振り返って当時の臨調の中身をみると、現在示されているメニューのほとんどがそろっています。医療提供体制の制限、医療費の総枠管理、中小病院・民間病院の再編、そして医師過剰論などです。当時決定されたことが現在の厚労省官僚に引き継がれています。この30年間改悪に次ぐ改悪でしたが、反面私たちの運動によって一気に実現させなかったともいえるのではないでしょうか。今後は力関係でいうと逆転できるかもしれないという情勢にあります。

(井本)
 当時協会はどのような運動をしたのか。過去の協会紙を眺めてみると、全国的な社会保障改悪反対運動に合わせて、富山協会はスポットをテレビや新聞に入れる、セスナ機を飛ばす、街頭宣伝し地域にどんどん出て行く、と積極的に活動しています。今の私たちのパワーを全部結集してもやれるかどうかわからないほどです。

(平井)
 セスナ機を飛ばしたのは全国の協会の中では富山が最初。電光掲示や富山駅前の須田ビル(当時:現CiC)でやっている街頭アナウンスなども活用しました。これらの取り組みは従来の署名とチラシに加えて何か新しい方法はないかと考えた結果でした。セスナ機は週末にゴルフをされる先生が多かったので、ゴルフ場の上空も回るよう依頼したところ、翌日「ゴルフ場で聞いた」と電話をもらったこともありました。

86年、老健法改正に反対して宣伝カーで県内を巡回。TV・有線でもスポットを流す。

(田中)
 平井さんと松村さんの2人が横断幕を張ったワゴン車にマイクを持って乗り込み、一週間県内を回ったりもしました。会員の医療機関の近くに行くと従業員の方と一緒に拍手で迎えていただいたと言っていましたね。当時は会員から目に見える活動、行動している協会にと心がけました。その後、どんな課題に取り組む場合も新機軸を編みだしながら活動するのが富山協会の伝統になっていきました。

県内の福祉医療制度を守る

(井本)
 県内課題としては、県単独医療費助成制度を守るということで82年に継続を求める申し入れを県に行っていますね。当時の取り組みの様子についていかがですか。

(田中)
 82年に障害者の方などの窓口負担を助成する県独自の制度がどうも後退しそうだということで県庁に行きました。保険医協会が行政に対して行動するというのはこの時が初めてのことです。県庁の厚生部長室で当時の入山部長と話をさせていただきましたが、マスコミがカメラを持って山のようにきました。マスコミ対応のこの時が協会にとって初めてでした。

82年、県単医療費助成制度を現物給付から償還制に変更する方針の撤回を求めて県に要請。

(矢野)
 87年には富山市が医療費助成制度への償還制導入の方針を撤回するという出来事がありましたね。

(斉藤)
 富山市は改井革新市長時代に、障害者への助成については全国でも有数の現物給付(窓口無料)の制度を作りました。現在でも現物給付ですが87年、当時の正橋市長が償還払いに変更しようという動きがありました。その時、署名をもって市役所を訪問し要請しました。その後償還制への変更方針は撤回されました。
 同じ時期に県は高齢障害者について現物給付から償還払いに変更し、他の市町村はそれに合わせたのですが、富山市は現在に至るまで現物給付を守っています。

(平井)
 84年に『医療、福祉、保健のすべて』という冊子を発行しました。きっかけは老人保健法の成立でした。この法律によって老人窓口有料化だけではなく、保健事業が新たに制度化されました。健康手帳を給付するとか、検診事業を行うとか。こういった事業はこれまでの医療運動からは取っつきにくかったのですが、協会としては当時、行政任せにせず場合によってはがん検診や住民検診を検診車ではなく開業医に任せてほしいという思いがありました。健康づくりに関わっていこうということで検診事業を中心に市町村調査を行い、県医療ソーシャルワーカー協会副会長(当時)だった芝木正幸さんを講師に開催した勉強会を経て冊子が完成しました。
 現在は県医療ソーシャルワーカー協会が『保険・医療・福祉ハンドブック』として引き継いで第5版まで出されています。

(矢野)
 この冊子は非常に役に立ちました。介護保険制度が始まったことで一部役割を終えた内容もありますが。当時は身体障害者手帳の交付を受けてもどのような福祉制度が利用できるのか役所は教えてくれませんでした。そこで私は芝木さんがまとめた資料などを患者さんに渡して、手帳はこのように利用できると情報提供しました。
 今もそうですが、行政はすべて申請主義。手帳を持っていても申請しなければ車椅子や税負担軽減など何も利用できません。

「ぼけ老人をかかえる家族の会」結成

認知症患者の家族が大勢参加し、早川講師のユーモアたっぷりの話に、会場は終始涙と笑いの渦にあふれていた。

(井本)
 医師団体が診療報酬や健康保険法について活動するのは当然として、この頃から医療のことだけやっていればそれで済むという時代ではなくなってきたように思います。
 介護や福祉の問題も直視しようという中の一環として「ぼけ老人をかかえる家族の会」が作られたわけですね。

 (田中)
 きっかけは協会第四回総会記念の市民公開講演会に早川一光先生を招いたことでした。大変面白い話をされてみんな感動しました。また当時NHKで連続ドラマが放送されていたこともあり、にわかにぼけ老人問題が人々の関心を引くことになりました。そこで350名の参加者に向かって早川先生は終始「家族の会を作りましょう」という話をされたのです。

 (平井)
 急遽参加者に「家族の会を作りたいですか」というアンケートを行ったところ、大多数の方がぜひ作ってほしいということで、後日アンケート協力者に集まっていただいて準備会を開いた経緯があります。
 協会として勝田事務局員を担当にして82年に設立されました。現在は名称を「認知症の人と家族の会」に変え、発展しています。

「富山の医療と福祉をよくする会」の結成

(井本)
 さらに88年に「富山医療福祉懇談会(通称:医福懇)」と「富山の医療と福祉をよくする会(通称:よくする会)」が設立されるのですが、この辺りの経緯は。

90年、県庁記者クラブで提言を発表し報道関係者から取材を受ける医福懇メンバー。

(小熊)
 当初は政策提言を出す「医福懇」と、患者・障害者と一緒に医療運動をする「よくする会」の2本立てで活動していました。私が参加するようになったのは一本化してからだと思います。最初の頃は提言をたくさん出していました。「がん対策提言」(88年)「地域医療計画提言」(88年)「歯科医療提言」(90年)そして「看護婦確保提言」(90年)です。私の妻も医福懇のメンバーに入っていました。

(井本)
 これらの当時の提言に目を通しましたが、真正面からものすごく真面目に取り組んでおられますね。

(田中)
 88年から93年にかけては、がん対策や地域医療計画、看護婦確保についてよく勉強しましたね。

 (平井)
 医福懇の最初の仕事は88年にがん対策の提言を出すことでした。私事ですがこの提言が出来あがった日にタバコをやめました。
 この提言の影響は大きなものがありました。県は当時の中沖知事が先頭に立って「がん対策条例」を制定し「がん対策推進本部」を立ち上げました。富山県の特徴として、受診率の低い胃がんが多いことはすでに明らかになっていて、予算もない中、まずは40歳、50歳の時に行う節目検診を始めましょうということになりましたが、これも提言の中に盛り込んでいました。
 提言をまとめるにあたり、原稿をまとめては富山医科薬科大学(当時)の鏡森定信先生や当時の保健所長を訪ねて、論理的に間違いはないかと意見を求めました。これが大学の保健医学や公衆衛生の教室、保健所長と連携するきっかけになりました。この医福懇には加須屋實先生や片山喬先生、中瀬真一先生、品川俊男先生などにも参加、協力いただきました。

(矢野)
 よくする会はこの20年間、全国的課題だけでなく県内課題に対してもよく動いてきたと思います。様々な集会、署名、提言や10回にも渡る電話相談「医療・介護110番」など、とても協会単独では出来なかったことです。
 よくする会の最初の10年間は田中先生が会長をされ、間を挟んで小熊先生、そして私にと会長が引き継がれています。

「核兵器廃絶をめざす医師医学者の会」の結成

89年7月、肥田舜太郎医師を講師に「核兵器をなくす運動と医師の役割」のテーマで開催。

(井本)
 そして89年に「核兵器廃絶をめざす医師医学者の会」が設立されました。

 (矢野)
 この会の設立のきっかけは、IPPNW(核戦争防止国際医師会議)が85年にノーベル平和賞を受賞したことを受け、当時の桐島正義保団連会長が「医師団体は医療だけをやっていてはダメだ。医師のヒューマニズムに基づいた活動をやらなければ」と訴え続けておられたことによります。
 富山ではようやく89年に協会とは別組織として核兵器廃絶をめざす医師の組織を作ろうということになりました。当時、開業医の先生方だけでなく大学の先生にも声をかけようということで、当時教授だった山本恵一先生や片山喬先生にも協力いただくことになりました。その中で佐々学先生に代表になっていただいてはどうかというご意見をいただき、お願いしたところ、快諾いただいた経緯があります。佐々先生は富山医科薬科大学の学長を経て富山国際大学の学長をされていた時でした。
 会の代表は佐々先生の後に片山先生、そして現在の金井英子先生にバトンタッチされています。

 (小熊)
 今までやってきた記録をみると毎年様々な企画をやっていました。昨年会長が若返り、新たに企画を準備していきたいと思っています。当時はこの会や先ほどの医福懇もそうですが、大学の先生方にご協力をいただくことが多かったように思う。

(平井)
 当時の富山医科薬科大学は設立間もない新しい大学でした。初代教授の方々も40代でした。大学内も生き生きとして活気がありました。今ほど話にあった取り組みに協力いただいた他にも、医局の勤務医のお嫁さんを探したいというある教授の奥様からの依頼もあって「ふれあいサロン」と名付けた出会いの場の提供、お世話を何回か行い、それがきっかけで結婚された先生もいらっしゃいました。
 現在は3、4代目の教授の方々となり、学術研究会の講師にお呼びしています。また、最近では昨年12月の本田宏講演会と医師・医学生署名に協力いただきました。

3.広い視野で活動の幅を広げて会員1000人に(1990年~99年)に続く