2012.6.20  混迷する政治、経済状況とメディアの功罪 中日新聞社社長 小出宣昭氏

市民公開講演会

混迷する政治、経済状況とメディアの功罪
~原発、雇用、社会保障、そして憲法にふれて~

講師 中日新聞社 社長 小出 宣昭 氏

日時 2012年6月20日(水) 19:15~21:00

会場 ボルファートとやま2階 真珠の間    
      

 

権力の行き過ぎに「おかしい」というのが新聞の仕事

 政治の混迷「誰も責任をとらない状況」が続いている

 政治が混迷していると言われますが、今に始まったことではありません。日本はこの25年間で17人の総理大臣が生まれています。混迷しているからこそ、総理大臣がくるくる変わるのです。これは日本史上初めてのことではありません。戦前の昭和5年から20年まで、つまり、太平洋戦争の敗戦までも同じことがありました。その15年間で総理大臣が12人、外務大臣は30人変わっています。そこまでいくと会社の稟議書と一緒で、一つの案件について多くの人が判子を押し、何かあったとき、誰の責任か分からなくなっているということです。結局、日本は政治責任があいまいなまま15年間も戦争をしてしまいました。このように今日の日本は戦前・戦中とほとんど同じであり、政治家の、誰も責任をとらない状況が平成の今も続いているということです。

 バブル時の膨大な税収はどこへいったのか

 現在の大きな問題の一つに、バブル以降からの財政赤字があります。バブルのとき、一番トクしたのは民間の儲けの半分を税金でもっていった官です。では、その膨大な税収はどこへいったのか。当時私は特別取材班を作って調べましたが、大蔵の壁に突き当たりました。資料は膨大にありましたが、専門家が見ても複雑でわからないようになっていたのです。

 役人と政治家が勝手に作った赤字をなぜ国民が…

 今回の消費税増税の問題は、増税したら社会保障はよくなりますか、ということですが答えはノーです。赤字を補うだけです。役人と政治家が勝手に作った赤字を、なぜ国民が負担しなければいけないのでしょうか。ごく当たり前の疑問です。それを説明しないと国民は納得しません。自民・公明は当然としてなぜ民主が消費税増税に賛成かというと、いま選挙をして無職になりたくないからです。なんとか解散を免れようとしているにすぎません。それが三党合意の本音だと思います。混迷という言葉を使うのもばかばかしい話です。

 小泉元総理と新自由主義

 バブルの時代、ソ連が崩壊し、日本社会党が消滅しました。そして、私たちの生活にパソコンやインターネットが浸透して来るようになりました。デジタル社会の到来です。デジタル機器のほとんどは、高度な精密性の高い軍事技術の民生用への転換です。これだけ情報が末端まで瞬時に伝わると、政治もその日その日の世論に右往左往してしまいます。外から新しいものがどんどん入ってきて、受け手が未消化のうちに次の新しいものがくることも、混迷の要因のひとつです。
 もうひとつふれておかねばならないのは、同じ時期に小泉総理が出てきたことです。「改革なくして成長なし」とワンフレーズ政治を行いました。あまりにも繰り返し言っているので、改革があれば成長するのかどうか、私は調べました。日本が一番成長したのは、昭和37年から45年までの高度成長期であり、成長率は10%を超えていました。しかし、このときに政治改革など一つもありません。経済活動が政治改革によって成長するという事実は過去を見てもほとんどなく、「改革なくして成長なし」は嘘八百もいいところです。その小泉総理は、アメリカそのものである新自由主義を日本に取り入れました。

 自由のアメリカ平等の日本その気質の違い

 民主主義の根幹は自由と平等ですが、この2つはまったく逆の概念です。片方を伸ばすともう片方は抑制されるのです。アメリカは多民族国家で宗教も多彩ですから平等はありえません。その見返りとして自由が発達しました。一方、日本は基本的に同じ言語を話し、同質社会、同質国家です。このような民主主義国家では圧倒的に平等が強くなり、国民は周りの人たちと同じことで安心し、自由はアメリカほど発達しません。「出る杭は打たれる」わけです。逆にアメリカは個人の成功を善とし、そのために自由な競争を最大限保障します。しかしその代償として、貧富の差がとても大きくなっています。  農耕民族は全員がコツコツ努力すれば計画的に米を育てることができます。まじめでいれば、誰もがご飯は食べられます。一方、遊牧民族はリーダーの判断によって繁栄したり時には絶滅したりするので、リーダーがとても大切になります。構成員の平等か、リーダーの自由な裁量か、どちらを大事にしていくのか、これが日本とアメリカとの決定的な気質の差です。  社会を構成するすべての人に平等にふりかかってくる、病気、障害、災害などのリスクを国として軽減するのが政治の役割ですが、そのリスク保障にまで個人の選択の自由や企業活動の自由を優先させているのがアメリカの新自由主義だと思います。日本人には日本的平等というものが染みついているのです。日本で政治を行うのにアメリカの得意技(新自由主義)で相撲をとってもうまくいくわけがありません。

 真のコモンセンスとは何か

 私たち中日新聞は、脱原発を貫いています。これについては考える余地はありません。人間の生命と環境を大切にするか、それとも経済を大切にするかという優先順位の問題なのです。何を基にそう結論づけたのか。答えは、万人が共有する判断力、すなわちコモンセンスです。コモンセンスとは究極の成文化されていない法律です。
 平和憲法をもったからといって平和になるわけではありません。それはワイマール憲法下であってもナチスが生まれたことが証明しています。日本国民で六法全集をすべて読んでいる人などほとんどいませんが、みな警察に捕まらずに生活できるのはコモンセンスがあるからです。社会は、万人が共有している判断力で物事を決めているのです。中日新聞は右派でも左派でもありません。ど真ん中を歩いています。最近は右側を歩く新聞が多いものですから左側にいるように見えているだけです。私たちは、コモンセンスに従いど真ん中を歩き続けています。

 デジタルとアナログ

 ネット社会がどれだけ進んでも、権力に対し究極の勝負に出ることができるのは新聞しかありません。新聞のすごさは記録性であり、消えてなくなりはしません。ネットは現在進行形で動いています。伝搬力があって一時的利用物としては使えますが、現在だけしか満足できません。それでは、デジタルとアナログは本質的に何が違うのかというと、デジタルは0と1しかなく飛ぶ文化であり、アナログはその間のプロセスに無限の力があります。デジタルで人生を語ったら、生の次は死しかありません。人生はアナログであり、プロセスは感動を招きます。心を動かし、より人間的なものはアナログです。結果ではなく、プロセスが人を変え、成長させると私は思います。  

 権力を監視することができる

 現在の日本には新聞を直接規制する法律はありません。テレビには総務省が放送法や電波法によって許認可権を持ちますが、新聞社のみが監督官庁がないメディアです。それは、憲法21条の言論の自由を持つということを意味しています。だから、共産党や自民党が新聞を持つことができます。でも政党の持つテレビというものはありません。このように、同じマスメディアでも、テレビと新聞は決定的に違います。  
 また、新聞社は株式会社ですが、商法の特例として株を公開してはいけないことになっています。株の上場ということもありえません。つまり、一定のお金持ちによって言論を左右されることを防止しています。監督官庁がないというのは、当然、権力の監視ということをやろうと思えば自由にできる立場です。権力が行き過ぎたときに、「おかしい」と言うことは私たちの仕事です。私は新聞記者として40数年経ちます。新聞社とは新聞をつくるメーカーですが、ただの一度として同じ商品をつくることのできないメーカーと言えると思っています。

(2012.9.5 とやま保険医新聞)