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2.会員112人から600人に大きく飛躍(1980年~89年)
3.広い視野で活動の幅を広げて会員1000人に(1990年~99年)
4.小泉医療改革に抗して~会員1200人に(2000年~09年)
3.広い視野で活動の幅を広げて会員1000人に(1990年~99年)
桜橋通りの新事務所に移転
(井本)
90年代を迎え、ますます協会活動への期待の高まりに応えるために、広い事務所への移転は非常にいいタイミングでした。
(松村)
設立から10年を数え富山市の大手町から桜橋通りに事務所を移転しました。理由の1つは事務局員を1人増やして四人体制にしたことです。
80年代終わりは医療費抑制策が本格化して医療政策の課題が多くなってきた時期でした。また、先ほどの他団体の立ち上げに協力しサポートすることに事務局の負担が大きくなっていました。そこで事務局員を1人増員することにしたのですが、それには大手町の事務所は狭すぎました。
そういった状況の中、今の大家さんから破格の家賃で誘われ事務所を移転することになりました。
(平井)
もう1つの理由に駐車場の確保がありました。役員会の出席者が徐々に増えてくると駐車場の確保が必要になりますが、当時の事務所近くでは駐車場が確保できず先生方の路上駐車が悩みでした。現在の事務所は夜になると30台程度の駐車が可能だったため移転の決め手になりました。また、移転先は大ホールも備え、周辺にはホテルなどがあり会合の会場確保に有利な立地なこともポイントでした。
相次ぐ健保法改悪への対応と医療改善 13万人署名
(井本)
相次ぐ患者負担増に反対して89年には富山県で13万人署名を集めましたね。
(斉藤)
この数字をみて大変驚いたのですが、どのような工夫があったのですか。
(平井)
10万人を目標にするのであれば従来の手法ではダメだと思い、医療機関には窓口署名ではなく10名連記の「家族持ち帰り署名」を提起しました。来院した患者さんに用紙を持ち帰ってもらい、家族・知人の方にも書いていただく方法で最終的に13万5千筆になりました。
(田中)
全国で1千万の署名を集めようという「国民医療を守る89年共同行動」の富山での取り組みについて、その年の11月19日に東京の日比谷野外音楽堂で開催された集会で紹介をすることになりました。私は「我々の熱意を伝え、一波が十波、十波が千波、万波をよんで大きなうねりになって運動を高めよう」と発言し参加者から大きな拍手をいただきました。
(井本)
この署名は国への要望と共に、県内の要望項目を加えてありますね。
(平井)
富山では独自に医療費助成制度の継続・拡充など県内要求項目を加えた署名をセットで実施しました。富山市だけで九万人の署名が集まり、その署名をもって市当局や市議会に要請を行いました。その後の医療費助成制度を守り、拡充する取り組みの大きな力となりました。
(田中)
ある意味で楽しい運動だったね。
歯科初・再診料の格差是正運動
(井本)
歯科分野では、富山協会の活動が北信越ブロックを経て保団連全体の運動に発展したと聞いていますが、ご説明いただけますか。
(小熊)
事務局がグラフを作成してくれたことを覚えています。昔は医科の点数表に甲表と乙表の2種類があり、歯科点数は改定のたびに都合のいいように甲表に準じて取り扱う、乙表に準じて…とされていました。これが準じた取り扱いではなく、歯科初再診料というものが新しく独自に設定され点数が低く抑えられることになりました。
この点数の変遷をグラフとしたのですが、これを見てここまで低くなったのかとみんなが驚いた。それが出発点になって全国的に取り上げられることになりました。
(太田)
歯科初再診料格差是正運動ですが、現在県歯科医師会専務理事の中道勇先生が国会図書館や当時の厚生省から集めた資料をもとに歯科雑誌に投稿、連載し全国的な課題になっていきました。保団連でも運動として取り組むということで、北信越ブロック会議に宇佐美宏保団連副会長が参加して情報提供、意見交換も行いました。
(松村)
中道先生から「医科の初再診料はどうなっているのか」と尋ねられ、資料を集めてグラフを作成しました。当時、歯科の先生方は医科診療所より高い初再診料だと思っていたところ、3回ほどの改定で医科に追い抜かれ歯科の初再診料はずっと据え置かれていることをグラフによって知りました。
昭和30年代の国会答弁で厚生省は「医科も歯科も診療科も関わらず初再診料は同一にするのがこれからの考え方」と答弁していたことが中道先生の調べで明らかになり、いつ考え方が変わったのかということで、単にグラフだけではなくしっかりとした理論付けで運動を展開し非常に説得力がありました。
富山個別指導事件
(井本)
そして、富山協会にとって忘れられない川腰先生を死に追いやった富山個別指導事件が93年秋に起きました。
(田中)
あのときは第一報を聞いて、これは何かあると感じました。平井事務局長が通夜に参列したところ奥さんや従業員が口々に「個別指導に殺された」と話されたというのです。そこで協会はすぐに情報収集を開始しました。臨時理事会で同じ技官の個別指導を受けた先生から話を聞きながら、悔し涙を流した役員の顔を今でも覚えています。
(小熊)
この事件は非常にインパクトが強いものでした。これ以前、私は審査と指導と監査とそれに伴う法律的なものの区別がついていませんでした。おそらくほとんどの先生方がそうだったのではないでしょうか。この事件が起きて、いったい個別指導とは監査とは何なんだと知ることになりました。
県当局やマスコミの対応について色々考えさせられる機会にもなりました。地方紙はこの事件を最初は熱心に取り上げていましたが、段々と取り上げなくなりました。上の方でブレーキがかかったのではないかと…。
(平井)
この事件は、全国的に衝撃をもって受け止められました。新・指導大綱ができるまでの指導は、特徴として恣意的な選定、医師会・歯科医師会の関与が大きかったと思います。全国で個別指導が理由と思われる自殺はすでに起きていましたが、表に出たということでは富山が初めてでした。
この事件を通してこれまでの指導ではダメだということで、指導大綱を変える、集団的個別指導を作るという行政としては譲歩というか、システムを新しくすることになりました。
協会では10月に事件が起きて、予定していた定期総会を3カ月後に延期し、12月には全国の保険医に呼びかけて大規模な追悼集会を開催しました。また、事件からちょうど1年後に一周忌の集会を立山で開催し、さらに1年後に書籍『開業医はなぜ自殺したのか』を発刊しました。
(松村)
この取り組みは協会の貴重な財産で、事件以降この時の活動を大変評価される先生が多いですね。開業医だけでなく、病院に勤務されていた先生方も含めこの話を出すと、今でも保険医のためにがんばったねという話になります。当時県内で働いていたほとんどの医師や歯科医師にとって、鮮烈な記憶として残っているのではないでしょうか。
(井本)
富山協会が動いたからこのような流れになったと思うのですが。医師会の動きはどうだったのでしょう。
(田中)
医師会はものすごく腰が重かったですね。最後まで沈黙を守り続けました。公式にも非公式にも口をつぐんだままでした。
(井本)
あの時の取り組みをみて保険医協会が好きだという方がたくさんおられます。平素より審査や個別指導問題に対する会員の思いを充分把握している協会がタイミング良く、俊敏に動くことが評価されているのではないでしょうか。
指導大綱の改訂と行政手続法について
(小熊)
この事件は、行政手続法がすでに成立し施行を前にした時期に起きました。当時行政手続法については解説本もなく、法律の文章を読んでどういう意味なんだろうと頭を捻った記憶があります。
ただ「行政手続法ができたからといって、行政のやり方は変わるんだろうか?」と当時私が協会紙に寄せた原稿でも「?」を付けました。この法律は罰則規定がないので、遵守しなかったからといって行政官が罰せられるわけではありません。それによって損害を被ったとこちらが言って初めてチャンスが出てきます。いざという時は使わなければいけない法律です。
事件の後に新・指導大綱が出されたりとこの事件の影響は大きいものでした。
(田中)
この取り組みは私としては約20年間の協会活動の中で1番の出来事になりました。
診療報酬改定と新点数説明会
(井本)
この間、2年に1度の診療報酬改定にふりまわされました。この中で協会の評価を高めたものに新点数説明会がありますが…。
(矢野)
診療内容と医療機関の経営に直結する診療報酬が、医療費抑制を錦の御旗にどんどん削られた30年でもありました。 協会は、82年に開いた最初の説明会以降、点数改定にとどまらず健保や介護保険の法律改正の時にも、会員を対象に説明会を開催してきました。今では協会の説明会が1番わかりやすいと、会員医療機関の7割から千人を超える規模で参加があります。
(太田)
歯科でも毎回新点数検討会を開催していますが、四割を超える会員が参加して、内容もわかりやすいと好評だと聞いています。
病院問題を重視
(井本)
医療費抑制策として医療法が改正、診療報酬が引き下げられ病院運営がいよいよ大変になってきました。
(斉藤)
医療提供体制に対する切り込みメニューの一つとして病床規制がありました。84年に地域医療計画の概要が示されましたが、各県で医療圏をつくり病床数に上限を設けなさいというものです。
ところが地域医療計画が出る中で、病床の上限が決められるだけでなく、医療圏でピラミッド型に階層化される枠組みが示されました。当時示された枠組みの中では最低300床なければ病院として生き残ることができないといわれました。どうやって病床規制が実施される前に増やすかということが全国の中小病院の課題となって、私が勤務する病院もこの時病床を増やしました。
その後、中小病院は病床の上限ができたことで新たな展望が持てなくなり、医師や看護師が足りない中で手術をやめる病院が増えています。地域医療崩壊が起き今の様々な問題に結びつく出発点を考えるとき、医療提供体制の視点でみると地域医療計画がそれだったと思います。
(平井)
この間厚生省は医療法を改正し、前後して行われる診療報酬改定で締め上げるというやり方をとってきました。
富山協会でいうと、85年の第一次医療法改正のときから『民間病院長懇談会』を開催するなど一貫して病院問題を重視しています。
斉藤先生の話のとおり、厚生省が病床規制をした後の92年に療養病床群が創設された時や、診療報酬改定のたびに情報提供を行い、必要に応じて病院の先生方に集まっていただく企画をしてきています。そのこともあり、現在では民間病院開設者89人のうち、88人が会員です。
(斉藤)
保団連に病院・有床診部会がありますが、その中で様々な資料提供、情報発信を富山協会は先頭を切ってやってきました。病院の規模に応じてアメとムチを使い分ける政策が行われてきていますが、地域医療全体をみたときに非常に大きな問題だと指摘していたのは当時の富山協会でした。
在宅医療を重視
(井本)
病床削減とセットで在宅医療が重視される流れになっていきますが、その辺りについて。
(矢野)
協会は在宅医療が今後重要になるということで、90年代前半は毎月のように研究会を開催していました。また、医師だけでなくコメディカルの方も巻き込んだ医療福祉保健交流集会を九六年から企画しました。その時の資料を読み返したのですが「連携と地域のネットワーク作り」がテーマの時もありました。協会として当時からこの分野での連携の必要性を感じていたのではないでしょうか。
(平井)
今年8月23日に、在宅医療連携交流会『連携して行う在宅医療』が県内の9つの在宅医グループと訪問看護ステーション連絡協議会との共催、富山県、県医師会など多くの団体の後援で開催されます。これは約20年前に故水上陽真先生や矢野先生がリードする形で始められた協会の在宅医療の取り組みが花開いたものとも言えます。
介護保険への対応
(矢野)
90年代後半は2000年に実施される介護保険の対応一色になりました。様々な企画を積極的に行いましたが、大学の専門家や理学療法士の方を講師に研究会などを開催し、制度そのものや認知症の方の対応といったものについて勉強しました。
(斉藤)
98年には900名が参加した有料の介護保険セミナーを開催しましたが、この企画は理学療法士会と共催し、富山県から後援や講師派遣を初めて得た企画でした。日曜の3日間をかけたこの企画には、医師・歯科医師・看護職・介護職のほか行政、大学教授など、かつてない幅広い方々が参加され、その内容の充実ぶりは協会の評価をおおいに高めました。
(井本)
富山協会はこの時の介護保険でもそうですが、さまざまな課題において誰もしていない段階で全国に先駆けて取り組みを開始しましたよね。こういう感覚、発想はどこからくるのでしょうか。
(平井)
この時の状況でいえば、矢野先生を中心とした若い世代の役員の先生方が持つ新鮮な現場感覚を大切にする活動スタイルからくるものだと思います。