大震災を忘れない①

被害の大きかった三陸の方がこんなことを言っています。
こんなに悲しい震災を忘れられていくのが一番つらい」と…。

         忘れていないよ、というメッセージを伝えたい

                                                                                 高岡市・内科    成瀬 隆倫

 昨年東日本大震災が起きた。地震発生当初自分は「何か」をする気が起きなかった。悲しみに暮れている人に「何かしてあげる」ことは「親切の押し売り」のように感じられた。しかしネットには、「もの」がないという情報があふれ、心の整理がつかないまま市民団体に物資や活動資金を送りはじめた。  
 3月の終わりには行政からの物資が各避難所に行き渡るようになったが、「誰も来てくれない。今日の食事は食パン1枚だけ」という一方で「毎日のように人がやってきて、足りないものがありませんか、と聞かれる。いらないと答えると次から来てもらえないから余っていてももらっている。」そんな状況だった。

被災者の心に寄り添うことを教わった

 

 そんな4月の終わりにネットで「スコップ団」団長のブログを見つけた。彼らは亡くなった友人の家を片付けたのをきっかけに、瓦礫に埋もれた家を片付けたり、被災した子供達に誕生日ケーキを届けたり、ペットの避難場所を提供していた。「友達の家を片付けに行こう」そう言って家族を二の次にし、週末ごとに「非難指定区域」の家を片付けに行く。  
 彼のブログにこんな書き込みがあった。
私は、今回の震災で主人と1歳の息子を亡くしました。未だに全く前に進めません。住宅や支援物資などは目に見える支援。けど心の傷の支援はどうしたら受けられるんでしょうかね。戻ってはこない二人を、毎日帰ってくるんじゃないかって思えてしまう自分が嫌でたまりません。愚痴だらけですみません。
彼は自分の電話番号をブログに書いてこう返した。
俺でよければ愚痴の電話をよこせばいい。
数日後、彼女からまた書き込みがあった。
先日は愚痴だらけの投稿にわざわざ答えて下さりありがとうございました。一歩いや半歩進めました。主人と息子の納骨を済ませることができました。長女がその時、号泣している私に『これからは私に頼ってね』って言ったんです。まだ13歳の子供が。自分だって辛いだろうに、大好きだった弟と父を亡くして泣き狂った長女が、いつのまにかすごく大人になってました。ありがとう。おかげで新しい道を見つけました。」  
 彼らの活動の根底にあるのは「理屈」でも「合理性」でもない。「悲しみ」。自分は彼らに出会い「何かをしてあげる」のではなく「寄り添う」ことを教わった。  
 スコップ団は3月10 日に亡くなられた2万人の方々に向けて2万発の花火を打ち上げる。

                   (2012年1月25日 とやま保険医新聞)

震災で逝った1人ひとりの命   2万発の花火に思いを込めて

 当日は会場となった宮城県泉が岳スキー場には雪が降っており夕方には気温も氷点下に下がった。  
 式典にはおよそ1500人の方が参列された。前方には焼香台が設けられ、3時からお経が流れる中焼香が始まり、時折亡くなった方へのメッセージも読み上げられた。  
 5時から団長の挨拶に続き鎮魂のミニコンサートが開かれた。  
 最初の花火が上がったのは6時。思わずもれた歓声にこの花火を実現させるために尽力してきた関係者の苦労が感じとれた。歓声が上がったのは一瞬で、参加者は最後まで静かに空を見上げていた。約1時間の間、輝いてはすぐに消えていく2万発の花火を見つめていた。この1つ1つの花火が1人1人の命だった。いつまでも輝いて欲しいと願っても一瞬で消えていく花火。悠久の時の流れの中では人生も一瞬なのかも知れない。「俺たちは元気だよ」と話しかける言葉に「残ったあなたも輝いて生きなさい」そう天国から語りかけているように思えた。  
 参列者が帰られたあと、関係者約100名でゲレンデに落ちている花火を拾い集め、ホテルにチェックインしたら11時を過ぎていた。
 翌日の3月11日には、仙台駅で普段と何も変わらないように足早に行き来する人たちを眺めていた。

(2012年4月5日 とやま保険医新聞)

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