大震災を忘れない⑫

⑪がんばれ同窓生 岩手医大医学部

転出する子供達…復興に必要な人材が流失しているという危機感

宮城県気仙沼市・佐々木小児科医院  佐々木 文秀

がれきが道をふさいでいた現場の今-気仙沼市- 産経ニュース:東日本大震災パノラマvol.251より

 大震災後すでに2年を経過したが、未だ当市の被災地域は瓦礫が撤去された更地の所どころに家が建っているだけの、侘しい風景が広がっている。復興は進んでいるとの事だが、目で見る限り遅々として進んでいない様に思われる。  私は小児科医であり複数の保育所、幼稚園、小学校の校医をしているが転出する子供達が目立つ。人間は目で見た物を信じる傾向が有るが、遅々として進展の無い当地を見限って、仕事のある地域に転居する父親について行く為であろう。行政には復興に必要な人材が流失している危機感が不足しているようにも思われる。

使いづらい補助金制度は復興が進まない理由の一つ

   民間の医療機関に対する補助率は25%位と極めて少ないなかで、被災会員の多くは多額の借財を抱えながら診療を再開し地域医療に貢献している。現在補助率を上げてもらうように気仙沼市医師会長が要請し、県医師会も努力してくれている。
 今回補助金をもらうのに多大の労力を使い、運良く交付されても使用目的が限定され、なかなか使えない事が初めて判った。復興が進まない理由の一つは、予算は付けたと云うが、実際は使えない金が多すぎる為だろう。現在の予算制度は極めて問題があると考える。

3月末で打ち切られた 医療費の一部負担金免除

 また宮城県は、同じ被災県である岩手県や福島県に比較し、被災者が多く財政負担が多額になるとの事で今年3月末で医療費の一部負担金免除の制度が打ち切られた。岩手県、福島県は継続されている。正しくない復興予算の使用もあるとの報道もあり、この制度の打ち切りは間違っている。復興予算の一部はこの様な制度の為に使うべきである。今後体調が悪くても負担金の事を考えて、医療機関にかかれず仮設住宅で死亡する例が出ない事を祈る。 (以下の文章は、同窓会誌に掲載されたものである)

東日本大震災を体験して 火の海となった気仙沼の街

 長い長い、かつて経験したこともない異様に長い地震であった。平成23年3月11日午後2時46分東日本大震災発災。その時自宅にいた私は地震が収まるなり、外来に飛んで行った。職員は訓練通り、待合室にいた母子を家に帰し、バケツリレーの要領でカルテを二階にポンポン上げていた。私は101歳(当時)の父を2階に避難させたが、妻の「何でここにいるの?逃げなきゃダメでしょう」の一言で急遽車で高台を目指した。2階に集まりかけていた職員も着の身着のまま走って逃げた。近くに高台があったことは幸運であった。

101歳の父を背負って 暗い山道を登った

3月12日午前1時33分朝日新聞社機から

 どれぐらいの時間が経っていたのだろうか、雪の降る中、私達は高台から、車や家が流されて行くのを茫然と眺めていた。「ああ、この世の終わりだ」と職員のひとりが呟いたのを憶えている。やがて夜になると海上の油に火がつき、文字通りの火の海となった。陸の家屋にも延焼し、避難した高台にも火の粉が飛んで来るようになったので、更に安全な場所に移動しなければならなくなった。父を連れての山越えは無理と思ったが、私が動かなければ誰も逃げようとしない、ならば行ける所まで行ってみようと、私は父を背負って歩き出した。妻と職員が続いた。2本のペンライトの明かりを頼りに、暗い山路を登ったり下りたりして広い道路に出ると、降るような星空であった。瓦礫とヘドロの中を滑ったり転んだりしながら、やっと市役所に辿り着いた。責任者に名前と職業を告げ、役立つことがあれば協力したい旨を伝えた。

「想定外」は不遜な言葉

 避難所では凍えるような寒さの中、新聞紙を身体に巻きつけ夜明けを待った。原発事故があったせいか、あのあと「想定外」という言葉が頻りに飛び交っていたが、実に不遜な言葉だと思う。この大いなる自然の営みを、人間ごときが想定出来る筈もない。避難所にいた私達は寒さに震えながら、自然の猛威に打ちのめされ、畏れ戦いていたのだ。誰が「想定外」などという言葉を考えたろうか。今でもこの言葉を聞くと腹立たしい思いがする。父は、その後、老人ホームにお世話になっていたが、今年4月、安らかに黄泉へと旅立って行った。これも職員皆の協力を得て避難出来た結果であり、穏やかに見送ることが出来たと感謝している。

検視したご遺体の中に私が診ていた子どもたちが

 翌日になると、県警より検視の依頼があり、同じ避難所にいた医師と一緒に現場に行き、他の2人の医師と4人で、犠牲者の検視に立ち会った。交代の医師が来るまで8日間230体のご遺体の検視に携わった。その中には私が診ていた幼い兄妹や子供達の祖父母、知人の遺体もあった。車の中で孫に覆い被さるようにして亡くなっていたという祖父と思われる遺体もあり、最期まで孫を守ろうとした祖父の心情を思うと、その場では流れなかった涙が、ひとりになると止めどなく溢れ出た。検視の合間には被災者の健康管理にも当たったが、当初薬も何もない時には、患者さんの手を握って話をするだけで症状の改善が見られ、医の原点である手当ての意味を理解するとともに、医師の一言の重さも実感した。

40日後に仮診療所で再開

 そんな日々を過ごしながら、私は迷っていた。職員にもその家族にもひとりとして人的被害がなかったのは奇跡的なことであったが、9人中4人の家が流失若しくは大規模半壊の被害を受けた。まだ子供達が小さい職員もいる。自分の年齢のこともあり、診療所を再開するべきか否かずっと考え続け、迷い続けていたのである。そんな時、外を歩いていると、子供達やその親、また知らない人達までが声をかけてくれ、乏しい食料を分けてくれた。自分が気仙沼の住人として受け入れられていることを感じ、胸が熱くなった。今後の人生を後悔せずに顔を上げて歩いて行くには診療所を再開するしかない、と決心した。

紙カルテが早期再開できた要因の一つ

 事はトントン拍子に運び、発災後40日で再開することが出来た。これも諸先輩を始め多くの方々のご支援と、地域の方々の温かい励ましがあったからこそであり、衷心より感謝している。また、パソコンは流失したが、皮肉なことに早期に診療を再開出来た要因の一つは、レセコンを導入しない古い診療形態のためであった。リストラを避けるためにレセコン導入をしなかったことに対するささやかなご褒美であったかのもしれない。

なぜ生き残ったかわからないが兎に角生きている

 今回の大震災では、実に多くの方々のお世話になった。発災直後から行政、自衛隊、警察、消防、医療関係、ボランティア等々、日本各地から、また外国からまで支援に来て戴いた。他の地域の災害に、これほど親身に支援して下さったことに、心から感謝している。今後、逆の立場になった時には、私も現地に行って恩返しをしたいと思う。  東日本大震災は人生観を根底から覆すほどの大きな出来事であったが、来しかたを振り返り、これからの生き方を考えるきっかけを与えてくれた。あとで検証してみると、生へ生へと歯車が回っていたと思われるような不思議な事象が多々あった。生き残ったのは何故なのか、それは解らない。だが、兎にも角にも私はこうして生きている。残りの人生はせめて世の中に役立つ生き方をしなければ、申し訳ないと思う昨今である。

(2013年5月15日号 とやま保険医新聞)

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