⑪がんばれ同窓生 奥羽大歯学部
一見静かでありふれた日常、だが 三十分先に「立ち入り禁止区域」が
福島県田村市・おくあき歯科医院 奥秋 敏成
「あんな所、人間が住む所じゃねえよ!」 応急仮設住宅に住む患者さんが歯科助手に向かって発した一言である。言われた本人は同情の片鱗すら見せない。彼女も仮設から通勤しているのだ。他の2つの診察台に座わっている患者達も苦笑していて、気がつけば全員仮設住まいだった。なるほど、震災は継続中なのだ。…あの時はひどかった。
迫り来る不安と恐怖
耳障りで不快な携帯の地震速報アラーム音、これが全ての始まりだった。すぐに突然の横揺れ。「でかいね」などと言っているうちに、激しさは増していく。受付のカウンターに掴まりながら、待合に座る患者さんの安否を見守る。背後の壁や棚から落ちる物の様々な音、スタッフの悲鳴。駐車場にある軽自動車が倒れそうなほど揺れている。「先生、怖い!」「うん、おれも怖いよ」。とにかく激しい揺れがおさまる事を祈る事しか出来なかった。 有線のラジオから「大津波警報」とか「震度7」という、聞き慣れない単語が絶え間なく流れていた。電話は全く繋がらないし、当日はメールも不通。その後の大津波や帰宅難民等の情報はテレビのみで知った。情報不足という点では、まったく被災していない地域と同レベルだったのではないだろうか。
すべてを変えた原発事故
翌日3月12日、それでもまだ気丈だった。午前中も「大丈夫、順調だ」と思っていた…。
午後3時過ぎに起きた福島第一原発1号機建屋の爆発。ここから東へ40キロしか離れていないところだ。日も暮れてきてなお、西へ西へと逃れてくる避難の人々で人口数万の僕たちの町は騒然となった。途切れる事無く闇に流れる防災無線の声、大編隊で低空飛行をするヘリコプターの爆音とサーチライト。パトカー、消防車のサイレンの音と光、猛スピードで原発地域に向かう自衛隊車輌。戦争が始まったかのような迫りくる不安と恐怖。あの夜は忘れられない。
1号機の爆発事故から2日後、祈るような気持ちで事故の収束を待っていたが、今度は3号機が大爆発した。絶望的な発言と対応を続ける官房長官や東電の会見。記者会見の中継を突然打ち切る等不自然な報道ばかりするメディアは本当に信用出来ない。僕たちの不信と混乱は増すばかりだった。屋内退避エリアは、自宅や診療所から10キロまで近づいてきた。以前、仕事でお世話になっていた近隣の村長が「政府の指示を待っていられない」と決断、全村避難を開始した。しかしその事実も全く報道では触れていない(該当地域に政府から避難指示が出た時、もうそこに住人はいなかった)。
次は自分が決断をする番だった。家内に「逃げるぞ」と声をかけたときは深夜零時を過ぎていた。口惜しかった。この時まで全く原発の存在に何の疑問も抱かず生活してきた自分にひどく腹が立った。
避難先から戻って
避難先とした家内の実家(福島県郡山市)で数日過ごしたが、もどかしさと不安の日々だった。繁華街も閑散とし、あちこちで建物が壊れ、大量のコンクリートのかけらが散らばっている。近未来SF映画を観ているようだった。
そんな中でも、開いている店がある。外でラーメンを食べるだけで涙が止まらない…美味しい、温かい。頑張っている人もいると思うと、今の自分が惨めというか情けなさでいっぱいになった。原発事故の不安や放射能への恐怖はあったが職場に戻る決心がついた。医院の玄関に貼ってあった「しばらく休診…」の貼り紙を剥がした時は妙に爽快だった。
身元不明遺体の検視…辛く悲しい作業
「やっているんですか」と電話をかけてくる患者さんの応対をしながら、日常を少しだけ取り戻せた事をうれしく思った。そんな中、僕にもうひとつ大事な仕事が舞い込んできた。
相馬市内の工場跡で
福島県でも身元がわからない多数の遺体があがっていたが、沿岸地域の歯科医師は自ら被災したり、原発事故により避難を余儀なくされていた。検視のためのマンパワー不足が起きている事を知って僕は志願した。
検視会場は沿岸部にある相馬市内の工場跡。体育館並みのスペースに無数に並ぶ棺桶、家族を捜す人々、遺体を見つけ泣き叫ぶ人々、お坊さんの読経、引っ切り無しに出入りを繰り返す霊柩車が鳴らすクラクション。線香の匂いのなか警察官達が棺桶を組み立てる音が鳴り響く。術衣姿の僕は、棺だらけの部屋の真ん中で呆然と佇んだ。
3月26日は40体以上の遺体があがった。免許証等所持品で身元が判明されれば歯科に回ってくる事も無く、すみやかに納棺される。身元不明と判断されると、我々が口腔内を所見し、身元確認の手掛かりを探す。僕が検視した人数は18名、老若男女様々な遺体が自分の前にやってくる。当時、比較的寒い気候が続いたことや泥、土にまみれた状態で発見された方が多く、思ったより腐敗は進んでいなかった。しかしそれなりに臭いもきつく、文字通り変わり果てた人間の姿は筆舌に尽くしがたいものがあった。
遺体との無言の会話 その場にいた全員が涙する
口腔内所見は、まずティッシュで口の中から泥をかき出す作業から始まる。歯ブラシとかは何の役にも立たない。恐怖とか、嫌悪でもない、とにかく辛く、悲しい作業だった。それでも必ず、遺体の髪や頬を撫でるようにする。一人一人が3月11日14時45分までは普通に生活を営んでいた人間である事を忘れないために。
幸か不幸か、腐敗臭等については、恐ろしいほどの早さで慣れる。「あなたは誰?」と無言の会話を交わしながら粛々と仕事を進めるしかない。なかには年齢、性別の区別もつかない状態の場合もある。「女性、中学生くらい」と所見したときは、その場にいた歯科医、警察官、皆が泣いた。どうしてこんな事に…、とやるせなかった。
夕方5時、その日の作業は終わる。くたくただった。送迎をしてくれる地元の若い警察官が声をかけてくれた。「先生、お疲れ様です、さあ家に帰りましょう」。僕は黙って頷きながら胸に込み上げてくるものを感じた。僕にはまだ帰る家も、仕事もあるのだ。
繋がっていることを感謝
震災から2年が過ぎた。様々な出来事のいくつかは夢だったのでは?と思えるほどに静かでありふれた日常を過ごしている。 患者さんの約20%が被災者で一部負担金免除という状況だが皆さん元気だ。しかし車で30分ほど東に走ると、そこから「警戒区域」と呼ばれる立ち入り禁止地区になる。警察官がバリケードをたてて24時間警備しているのだ。想像出来るだろうか。
大菅先生ありがとう
当時は、悲しさや辛さのあまり慟哭したり、怒鳴り散らしたりと滅茶苦茶だった。この原稿を書きながら当時の様々な事を思い出し泣いてしまった時もあった。絆、という言葉は、実は我々被災者はあまり使う事はない。が、早々に富山県在住の友人、大菅明先生から連絡を頂いた時は、繋がっていることを嬉しく感じた事を覚えている。彼とは20代の頃に、最悪の被災地となった三陸沿岸部をオートバイでツーリングした思い出があり、声を聞いただけで胸があつくなった。
最後に、震災の風化を良しとせず、今回執筆の機会を与えて頂きました富山県保険医協会関係者の皆様に、心より感謝申し上げまして筆を置きたいと思います。
(2013年4月5日号 とやま保険医新聞)
大震災を忘れない①
大震災を忘れない②
大震災を忘れない③
大震災を忘れない④
大震災を忘れない⑤
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大震災を忘れない⑦
大震災を忘れない⑧
大震災を忘れない⑨
大震災を忘れない⑩
大震災を忘れない⑪
大震災を忘れない⑫